シューマンのロマンティシズムとは、または形式と表現―ピアノ協奏曲イ短調作品54
いつのことだったか。はじめてシューマンの名作ピアノ協奏曲を聴いた時、よくわからなかった。しばらく何が何だかわからない状態が続いた。うまく説明できないのだが、とりとめのない感じがした。だが何かを読んで、すっきりと聴けるようになった。あれは何だったんだろう。少なくとも、知識は鑑賞に役立つことを知った。
ピアノとオーケストラのための幻想曲
1840年の「歌の年」の翌年、シューマンは「ピアノとオーケストラのための幻想曲」にとりかった。当然、新妻クララのための創作だった。ピアノのための楽曲の最高位のジャンルは協奏曲である。しかシューマンはいきなりこの高峰に挑むのではなく、単一楽章の「幻想曲」に狙いを定めた。ピアノ協奏曲を書きたいという彼の願望は、4年後の1845年に叶えられた。「幻想曲」を第1楽章とし、新たに第2、第3楽章が書き加えられたのである。ピアノ協奏曲イ短調作品54の誕生である。
しかしピアノ協奏曲の第1楽章が最初は単一楽章の「幻想曲」であった痕跡ははっきり残されている。そもそもシューマンはどのような構想をもってこの創作に臨んだのか。
曲はオーケストラのトゥッティの打撃から、ピアノが付点リズムで飛び出す3小節のイントロダクションから始まる。そしてまずオーボエのソロで印象的な第1主題が出る。一瞬にして、シューマン的としかいいようのない、ロマンの香気とメランコリーを漂わせる。
今「第1主第」と書いたように、第1楽章はソナタ形式で書かれている。この後、独奏ピアノで主題が繰り返され、第2主題は定石どおり、平行調のハ長調で出る。展開部の後の再現部では、第1主題はそっくり提示部のまま、第2主題は同主長調のイ長調となる。教科書どおりである。そしてコーダが来る。ソナタ形式で構想されているのは明らかである。
ただ普通のソナタ形式ではない。そのことを視覚的に納得するために、第1楽章のすべてのテーマを表にしてみた。特に楽器の指示のない場合は独奏ピアノが奏する。
第1主第は青で塗りつぶし、まったく同一であることを示す。普通のソナタ形式ではないというポイントは次のようにいえる。
1.単一主題によるソナタ形式
第1主題と第2主題は基本的に同じという「単一主題によるソナタ形式」である。主調が短調の場合、第2主題は長調となるため、形式から必然的に短調の第1主第、長調の第2主題という調的コントラストが生まれる。長調の単一主題ソナタ形式で同じ主題を出す「意外性」「不意打ち」を楽しんだハイドンのやり方の真似とはいいがたい。なおここでは古典的な(たとえばショパンのピアノ協奏曲のような)オーケストラ提示部をソロ提示部で繰り返すといった二重構造は採用されていない。最初から独奏ピアノとオーケストラが有機的に絡み合う提示部となる。ひょっとしたら、同一主題を二度反復する古典的なやり方へのロマン的な解決という意図があったのかもしれない。単一主題にすることで、主題は必然的に二度現れるからである。
2.二部分からなる展開部(中間部)
展開部は二つの部分からなり、まず最初は緩徐なアンダンテ・エスプレッショーネ(表情ゆたかなアンダンテ)となる。続いてテンポ・プリモ(もとの速さで)となり、イントロダクションが引用され、ピアノとオーケストラの激しい応酬が繰り広げられる。この「繋ぎ」(主題性がないので、そういっておく)から、ピュ・アニマート(いっそう生き生きと)の部分に入る。古典的な意味での展開は繋ぎの部分に垣間見られるくらいで、展開部というより中間部の感がある。
3.主題の変奏としてのソナタ形式
すでにこの曲では第1主第と第2主題の主題的二元性は解消されていた。しかし展開部の二部分での主題が第1主題から導き出されているのは明らかである。そしてカデンツァの後の結構長いコーダの新しい主題も、あの第1主題の変形である。つまり第1楽章の主題と呼べる5テーマ「第1主第」「第2主題」「アンダンテ主題」「ピュ・アニマート主題」「コーダ主題」、これらすべての源泉は第1主題にある。単一主題が変奏・変容するソナタ形式なのである。リストはこの曲が大好きだっただろう。
シューマンが盛り込んだ工夫、あるいは新機軸は、全体として、必然的に、次の構想に行き着く。普通のソナタ形式ではないポイント第4である。
4.ソナタ形式と多楽章制の融合
要するに、ソナタ形式の軸である提示部-再現部の枠組みに、中間部としてアンダンテの緩徐楽章的な部分、スケルツォ的なピュ・アニマート部分、そしてコーダのフィナーレが融合されているのである(上図右 青の記述参照)。こうしたさまざまな要素を必然としてまとめあげるために、主題の変奏・変容は欠かせなかったに違いない。
つまりソナタ形式の構造の中に第2楽章、第3楽章、第4楽章の要素がとり込まれているということである。このことは第1楽章が最初は「幻想曲」として意図されたことと無関係ではありえない。単一の楽曲だったからこそ、多楽章の要素を内包するような構想が盛り込まれたのである。
多楽章制を有機化する試み
古典派で確立された多楽章制は、音楽のさまざまな側面、すなわち「形式」「歌」「踊り」などの要素を楽章で分担し、セットにまとめてひとつに総合する方法論だったといえよう。ロマン派にはさらにそれを圧縮、有機化する試みがあった。たとえばメンデルスゾーンのピアノ協奏曲では3つの楽章は複縦線で区切られているものの、第1楽章はソナタ形式の提示部と展開部のようであり、第2主題は文字どおりの緩徐楽章となる。そして第3楽章で第1楽章の素材が戻ってきたりもする。つまり、3楽章制を残しつつ、ソナタ形式的なものが浸透しているのである。
シューマンのピアノ協奏曲第1楽章も同じ意図が見える。しかし方向性は逆である。単一の楽曲のソナタ形式の中に多楽章的なものを融合させたからである。その起源はシューベルトの「さすらい人幻想曲」だろう。
幻想曲ハ長調「さすらい人」D.760(1822年)は4つの部分からなる幻想曲であるが、楽章で区切られることはない。一続きの楽曲なのだが、それを保証しているのは主題の変奏・変容である。
ハ長調の第1主題で景気よく曲は開始されるが、同じ主題が第2主題となり、ホ長調の pp で歌われる。ハ長調-ホ長調の3度の調関係は『ワルトシュタイン』と同じである。第1主題がハ長調で戻ってきて、しばらく展開的な様相を呈するかと思うと、3つの目の主題が変イ長調でひょっこり現れる。第3主題と呼ぶにしても、第1主題の変形にほかならない。変イ長調はハ長調の長3度下で、ハ長調の長3度上のホ長調の第2主題と対となり、補償関係にある。
やがて曲は嬰ハ短調のアダージョに入る。嬰ハ短調はエンハーモニックで変ニ短調であり、第3主題の変イ長調の下属調の同主短調にあたる。曲はそのまま変イ長調のプレストへ。スケルツォ的な部分である。案の定、ドイツの6の和音からハ長調へ回帰。フィナーレのフーガへ突入する。スケルツォ主題もフーガ主題も第1主題の変奏であることはいうまでもない。各部の配列は4楽章のソナタと同じである。
第1主題を源泉として、すべての主題を変奏によって導き出し、すべての部分で配置している点で、シューマンは「さすらい人幻想曲」の決定的な影響を受けだたろう。すでに見たように、シューマンのピアノ協奏曲第1楽章はいくつかの部分からなっていた。彼自身の曲でいえば、『幻想小曲集』作品13の「夜に」と「なぜに?」と「飛翔」が同居するかのようである。しかしこれら別々の曲が1曲となるためには、主題を同じにするしかない。
シューベルトの「さすらい人幻想曲」は、ある意味で、多楽章的な意匠に基づく変奏曲であり、即興曲ともいえる。彼なら、単一の主題にこだわるより、無尽蔵のインスピレーションのままに、別の旋律へ赴いた方が楽だったかもしれない。しかしシューマンにとっては変奏は「彼のスタイル」であり、お手の物だった。彼は「多楽章制を一続きの楽曲に同化させるシューベルトの意図を「幻想曲」に読みとったに違いない。そしてシューマンはさらに発展的な試みを追求した。
だからシューマンの曲も最初は「幻想曲」だったのだろう。
しかしシューマンが達成したのは「幻想曲」に終わらない、コンチェルトの第1楽章にもふさわしい楽曲だった.シューベルトの「さすらい人」と決定的に違うのは、シューマンでは提示部-再現部の枠組みをしっかり残したことだった。ここにシューマンの新機軸がある。シューベルトではやや即興的だったものが、ソナタ形式に封印された感がある。いわばソナタ形式と多楽章制の合体における比重がソナタ形側に置かれることになった。シューベルトの場合はあくまでも「4つの楽章を繋げた」といわれるのに対して、シューマンの楽曲は「1」へと完全に統合されたのである。
演奏上の問題点
シューマンのピアノ協奏曲は着想と創意が高度に結びついたひとつの達成だった。だが特に第1楽章は多楽章制的意匠をとり込んだ単一主題によるソナタ形式ということで、演奏上のある種の課題を提議するかもしれない。なぜか? 答は簡単である。上の表をもう一度見ていただきたい。主題は楽章全体で9回現れる。それらは基本的に同じ主題である。さらに反復もされる。これはあまりにも多くないか?
多様性の統一という言葉があるが、多様性が増すと複雑すぎて、何が何だかわからなくなる。統一が勝つと単調になる。この曲の場合、「一」が強すぎて、あきる、つまらない、しつこいと感じられてしまうリスクに触れる危険性を蔵している。
だからこそ、シューマンはさまざまな工夫を施した。同じ主題に多様化させるパラメータはいくつかある。
1.調性
主題は短調、第2主題は長調だった。短調と長調の二元的変化ということになるが、ハーモニーの安定度も主題によって異なり、ロマン派の例にもれず、長調でも短調へ傾きがちである。
2.書法
ピアノが主題を担当する場合、書法を変える。オーボエのソロの後、ピアノが主題を繰り返す時は、コーダルな書法となる。右手と左手(譜例では左手は引用していない)が同時に和音をつけて、旋律のリズムで動くのである。第2主題も同様。書法の書き分けについては、ただの変化ではなく、構造への配慮も感じられる。というのは、第1主題と第2主題というソナタ形式の軸となるところではコーダルな書き方がされ、それ以外のところではシングル・トーンで書かれているからである。構造への意識があるとしか思えない。ピュ・アニマートの主題とアレグロ・モルトのコーダ主題は「より速い」性格にふさわしい身軽な書法となる。アンダンテ主題がシングル・トーンなのは、クラリネット・ソロとの対話のためである。
3.変奏
主題そのものも変えた。ただし冒頭の下行3度の音型は常に同じで、そこから旋律が紡ぎ出される。下行の後上行する動き、その後の跳躍などは第1主題との親和度はかなり近い。
4.楽器法
主題はオーケストラにも配される。したがって、担当楽器も変わる。冒頭のオーボエ、アンダンテでのクラリネットなどに加えて、コーダではオーボエとクラリネットが主題を担当する。
これらはいわば作曲側から見たパラメータであり、楽曲がどう書かれているかの問題である。しかし実は演奏家に課されるべきパラメータも存在する。テンポである。シューマンは曲が単調に陥るリスクを感じており、だからさまざまな工夫を施したのだったが、実は、その中にテンポもあった。
曲のテンポはアレグロ・アフェトゥオーゾという珍しい指示である。アレグロだけより「アフェトゥオーゾ(愛情ゆたかに)」が付くことで、細やかな表現のニュアンスが必要となる。したがって、若干、緩やかな快速調となるだろう。第1主題と第2主題は原則としてこの基本テンポに属する。これに対して、中間部はまずアンダンテ・エスプレーシヴォに落とす。それから最初のテンポに戻り、「ピウ・モト(より速く)」へと一段ギアを上げる。最後のコーダは四分の二拍子のアレグロ・モルトの急速調となる。
つまり、遅めのアンダンテを下限に、アレグロ・アフェトゥオーゾを中心にして、2段階速くしたようなテンポ設定が必要となるのである。少なくとも4種類のテンポが想定される。ここでテンポが多様性の重要なパラメータとなる。音楽の性格を決定する最重要な要素のひとつがテンポだからである。
形式とは表現である
ここで問題が発生する。いや、している。以前もどこかで引用したことがあるのだが、やはり大指揮者ブルーノ・ワルターの言葉に耳を傾けるべきだろう。彼は第1楽章冒頭の演奏について語っている。
わたしはすべての聴衆に証人となっていただくよう要請するが、普通[の演奏で]は、すでに4小節目から、つまりピアノの激しい導入の3小節後に、もうアレグロは終わりになってしまう。始まった時の速度で先を進めずに、指揮者は[オーボエに出る]第1主題をもっとゆっくりしたテンポとセンチメンタルに傾いた柔和な表情で開始する。―中略―これについで、たいていはさらに引き延ばされた、いっそう柔和な弾き方で、ピアニストが同じ主題を続ける。さてそこで、どうか一度、楽譜を見て確かめてくださるよう、読者にお願いするが、42小節目のfにいたるまでの間、シューマンは何のテンポ変更も記していないのである。ところが、ほとんどすべての演奏は、ここにきてはじめて、つまりこのfとともに、再び冒頭のアレグロの速さとなり、そして6小節後にはもう、またあらためてセンチメンタルなゆっくりしたテンポへと退く……。
ブルーノ・ワルター『音楽と演奏』渡辺健訳、白水社、1973年、49ー50頁.
実際の演奏で聴いてみよう。往年の名盤、コルトーの演奏である。
ワルターの言葉に近い演奏といえよう。冒頭はほとんどアレグロ感が消失しており、時代がかった大きなテンポの揺れが見られるものの、多かれ少なかれ多くの演奏・解釈の傾向を示しているようだ。「ロマンの香りが馥郁とする」名演と評されるのだろう。
ここで問題にしたいのは、表現の濃淡や表情の濃密さの度合いではない。テンポの秩序の問題である。この曲では4つのテンポの設定があると書いた。もっとも遅いアンダンテは中間部に設定・指定されていた。もし同じテンポを冒頭で出してしまえば、テンポの秩序が壊れてしまう。
しかしテンポはまた表現の問題でもある。速い音楽と遅い音楽では表現される感情の質が違う。快速調の音楽に内面に沈潜するような感情の表現は向いていない。心にひたひたと迫るような感情を表現するには、ある程度の遅さを必要とする。シューマンがアレグロ・アフェトゥオーゾと書いた時、ある種、矛盾したものを要求したのかもしれないが、快速調でありながら、外向きの華やかさではなく、思いの深いアレグロを想定したのだろう。しかしそれとてアンダンテ・エスプレーシヴォとはまったく違うレヴェルにある。
どっちの表現がいいとかの問題ではない。シューマンは第1楽章のもっとも深い感情表現の核を中間部に設定したということである。そしてこの最深部から徐々に感情を構築的に振り分けた。具体的にいうと、テンポ設定を構築的に配したのである。つまりテンポの秩序は感情表現の秩序でもあった。
もしこの秩序を壊し、冒頭からアンダンテ・エスプレーシヴォで主題を弾いたら、つまり主題が出るたびに濃厚な表現であえぐような演奏になってしまったら、あの中間部での感動は薄められ、ほとんど魂が抜けたようになってしまうかもしれない。感情的であることと感動の区別もつかなるかもしれない。表現の秩序を解体して、水平化した感情でベタベタの演奏がロマン的かどうかは別として、少なくとも作品の構造を実現しているかどうかは疑問なのである。
ちなみに、楽譜に近い希な演奏の例として、ワルター自身が指揮した盤もあるが、わたしのお気に入りの演奏を紹介しておこう。バックハウス、ギュンター・ヴァント/ウィーン・フィルの演奏である。
ワルターは言外に、シューマンのロマンティシズムとは? センチメンタルとロマンティックは違うのではないか? と問いかけているように思える。