シューマン 交響曲第1番冒頭をめぐって―または音を決定するのは何か

シューマンとの結婚前に、クララはすでに次のように書いていた。「彼がオーケストラのために作曲したら最高だろう。彼の構想はピアノの枠では収まりきれないし、すべてオーケストラ的な感じがする。わたしの最大の望みは、彼がオーケストラのために作曲することにある。それが彼の本領だ!」(1839年10月13日の日記)。

クララの夢が叶ったのは2年後、結婚した翌年の1841年だった。何度かの挫折の後、交響曲第1番は1月23日に溢れ出た。わずか4日後にスケッチを終え、日記に「万歳! 交響曲が完成した!」と記された。明らかに、幸福なインスピレーションの発露、あるいは噴出だったのだろう。2月20日までにオーケストレーションを終え、3月31日に初演を迎えることになった。すべては順調のように見えた。

しかしリハーサルの時、問題が発生した。冒頭のトランペットとホルンのファンファーレがうまく鳴らなかったのである。そこで次のようにいわれる。

初演に向けたリハーサルで自身の意図した音が出ないことを知ったシューマンが、メンデルスゾーンのアドバイスで現在の音に変更して初演されている。

日本語版 wikipedia 

結果的にファンファーレは3度上げて演奏され、出版の際にも引き継がれた。こうした経緯から、シューマンの楽器の扱いの不得手がいわれることがある。またオーケストラに熟練したメンデルスゾーンの助けがあったこと、さらには、こうした経緯から、改訂版で当時の楽器へ妥協したかのように語られることがある。だとしたら「オリジナル」の初稿こそがあるべき姿なのか? なぜなら現代の楽器では当時の制約はなく、シューマン本来の意図?が容易に実現できるだろうからである。

そこで、シューマンの第1交響曲冒頭のファンファーレをめぐり、1)文献的、2)文学的、3)音楽的の3つの側面からアプローチしてみよう。

オリジナルはどれ?―文献的アプローチ

交響曲の初演を行ったのはメンデルスゾーン指揮のライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団だった。上で引用した日本語版 wikipedia では、メンデルスゾーンがシューマンのスコアに「アドヴァイス」し、そのまま採用されたと書かれている。情報の出典は記されていない。ちなみに英語版 wikipedia ではそうした記述はない。ドイツ語版には「アドヴァイス」への言及があり、出典が明らかにされている。ただ指示されたソースの当該箇所には「ライプチヒ・ゲヴァントハウスでメンデルスゾーンによって初演される前に、シューマンは(ファンファーレを)3度高く上げなければならなかった」(Karl H. Wörner Robert Schumann. Piper/Munich/Zurich, 1987, pp.267-8.)とあるにすぎない。

メンデルスゾーンの貢献度の度合いはともかくとして、それ以前の、初稿の成立についての踏み込んだ報告が前田昭雄氏の著作『シューマン』にある。

前田氏はアメリカ議会図書館に所蔵されている初稿の自筆スコアのもとになったスケッチを精査した。するとすべての源泉ともいえる資料にも推敲の痕跡があった。原則として、スケッチはインクで書かれ、修正は鉛筆でなされていたという。問題の冒頭部分も鉛筆で修正されており、まずテンポ指示に「ウン・ポコ・マエストーゾ」が加筆され、ファンファーレの音も変えられた。氏は結論づける。

ここで私が確認しえたことは、スケッチの段階では恐らく“ミミミミ ドレミ”が原着想としてあったのであり、それを消し去って、“ドドドド ラシド”となっているということです。

前田昭雄氏『シューマン』春秋社、1983年、106頁。

修正された「ド」(移動ド階名、ドイツ音名ではB)からの開始は自筆スコアにも受け継がれた。リハーサルで音が出なかったというスコアである。つまりオリジナルといわれる自筆スコア以前に、作曲者のアイディアの原点を示すスケッチが存在したということである。そこから読みとれるのは、下のような変更である。

上述したように、下の楽譜が物議を醸したのは、GとA(ドイツ音名、移動ド階名「ラ」と「シ」)の音だっただろう。自然倍音列ではかなり高次で、不安定な音である。「朝顔」に手を入れて音を調節するストップ奏法が可能だったホルンはともかく、ナチュラル・トランペットでは対応できなかったのだろう。後にシューマンはそれを「くしゃみのような音」と形容している(1845年10月27日 メンデルスゾーンへの手紙)。

結局、出版の際に、ラシドは自然倍音列にもあるドレミへと3度高く移されたわけだが、これはスケッチの最初の音に戻ったことを意味する。オリジナルのオリジナルがあった? 「何でもオリジナル」主義者にとってはどれがオリジナルなのか、その根拠は? 冗談事ではない。

なお「メンデルスゾーンのアドヴァイス」についての前田氏からの言及はない。

「春」を? 春への「熱望」を描く?―文学的アプローチ

交響曲第1番のスケッチが始まったのは1841年1月23日だった。根拠は同日の日記の「春の交響曲を開始  Frühlingssinfonie angefangen」という記述にある。同じ1月末に友人エルンスト・フェルディナント・ヴェンツェルに宛てた手紙にはこうある。「この数日間、(少なくともアウトラインを)作曲していたが、それでとても幸福だった。ひどく疲れもしたけど。考えてもみて欲しい、完全な交響曲、それも春の交響曲なんだ」。だから構想のスタートに春のイメージがあったことは確かだろう。

シューマンのインスピレーションの源となったのは、アドルフ・ベトガーの詩「汝、雲の霊よ」だといわれる。前田昭雄氏訳をあげておこう(『シューマン』98-99頁)。

おんみ雲の霊よ、重く淀んで
海山をこえて脅かすように飛ぶ

おんみの灰色のヴェールはたちまちにして
天の明るい瞳を覆う

お前の霧は遠くから湧き
そして夜が、愛の星を包む

おんみ雲の霊よ、淀み、湿って
私の幸せすべてを追い払ってしまった!

お前は顔に涙を呼び
心の明かりに影を呼ぶのか? 

おお、変えよ、おんみの巡りを変えよ―
谷間には花が咲いている!

前田昭雄『シューマン』99-100頁。

春は光と再生の季節である。ところがベトガーの詩には陰鬱とさえいえる雰囲気が漂ってる。だから曲の冒頭のファンファーレは、初稿のように、BBBBGAB(ドイツ音名) がふさわしいという意見があるだろうし、それを正統ととみなす根拠ともなろう。音楽的にいえば、ハーモニーがないため、この音程だとト短調のように聞こえる。出版譜のようにDDDDBCD(同)だと変ロ長調に響く。両方を実際の音で確認してみよう。どちらが詩にふさわしいか。

下はB音から始まるマーラー版を採用したシャイ―/ライプチヒ・ゲヴァトハウス管弦楽団の演奏。次はD音から始まるクーベリック/ベルリン・フィルによる通常の演奏である。

確かに最初のBBBBGAB版は短調っぽく、ほの暗い印象は否めない。前田昭雄氏はDDDDBCD版を支持しているが、論述は迷走しているようにも見える。

シューマンの説明は別のことも示唆しているようだ。1841年8月19日、ワイマールの指揮者ヒッポリート・シェラールに次のように書いているのである。「今年の冬の末に作曲しました。本当に、春の到来を熱望しながらでした」。つまり春そのものの描写というよりも、春を熱望する心の表現が根底にあるという。だから1842年にシューマンは指揮者ヴィルヘルム・タウベールに次のように書き送っている。

演奏にあたって、春への熱望を少しオーケストラに吹き込んでいただけませんか? それが1841年1月に書いた時に一番頭に浮かんだことでした。まさに最初のトランペットの入りが高所からの目覚めへの呼びかけのように鳴り響いてほしいのです。さらにイントロダクションでは、蝶が舞い、世界が緑に変貌し、次にアレグロで、春のすべてが生き生きと動き出すさまを音楽で表現したいと思います……これらは、しかし、作品を完成させて初めて頭に浮かんだアイデアですが。

「作品を完成させた後に浮かんだ」。つまりシューマンの言葉は後づけだという議論がありそうだ。しかし作品の着手へと衝き動かしたアイディアは、作品の完成とともに明確になっていくというのは普通のことである。創作はアイディアのリアリゼーションそのものなのである。

シューマンのアイディアとは、序奏は、ベトガーの詩が醸し出す「心が凍てついた状態」というより、「春を熱望する心」「春へ向かう心」を描くプロセス的な音楽なのだということなのだろう。

ちなみに1839年にみずから発見したシューベルトのハ長調大交響曲に、シューマンは狂喜し、絶賛したが、第1楽章の序奏部は「アレグロへ移るところは全く新しく、テンポが全然変わっていないで、ちっとも気づかないうちに陸に着いたという具合である」*と書いている。シューマンのアイディアはシューベルトが開発した序奏から主部への音楽の驚くべき高まり、成長を、冬から春への移行の表現へと応用することだっただろう。

*シューマン『音楽と音楽家』吉田秀和訳、岩波書店、1958年、160頁。

しかし詩では春の到来を渇望するのは最後の2行にすぎず、前の10行は灰色の雲に覆われている。だからファンファーレが鳴り響くと、すぐにニ短調へドラマティックに転換し、プロセス的な音楽が始まるのである。しかしファンファーレそのものはどうあるべきなのか。「高所からの目覚めへの呼びかけのように」と作曲者はいうのだが。

楽譜は語る―音楽的アプローチ

楽譜を選択するにあたって、当時の楽器はどうだったとか、文献にはこうあるといった「音楽外」のところで論じられることはある。ちなみに、シューマンの交響曲第1番には、自筆スコアで演奏したスウィトナー/ベルリンシュターツカペレ盤が手元にあるが、出版されなかった楽譜を使った理由は「オリジナルだから」だろう(CD会社の意向であったりもするのか)*。何がオリジナルかも問題だが、それにしても音楽そのものについて語られることはほとんどないようだ。だから音楽について論じてみよう。

*ちなみにスウィトナー盤による自筆スコアの演奏で聴くと、第2楽章の冒頭で、出版譜では後に出る特徴的な音型がすぐに伴奏パートに出てくる。明らかに、推敲のさいに、後のために「とっておく」という変更が加えられたのだろう。音楽の進行とともに音楽的情報の密度を高めていく思考の深まりの表れとみなせる。変更は有意味であり、音楽の推移をより持続的かつ発展的としている。自筆スコアはまだ校正前の原稿のようだ。わたしなら、断然、出版譜をとる。

シューマンの交響曲創作のバネとなったもののひとつにシューベルトの交響曲ハ長調第8番『グレイト』D.944があったに違いないと書いた。影響関係で特に著しいのは、上述した序奏部の「全く新しい」解釈だった。古典的な例では主部の前に置かれる閉じた部分だった序奏が、『グレイト』では主部へ推進し、連続的に突入するイントロダクションとなった。シューマンはテンポの連続性を poco a poco acceleramdo(徐々に加速して)という指示でも示している。だが影響は冒頭からすでに明らかである。

シューベルトはオーケストラが沈黙する中、ホルンのみの吹奏で曲を開始した。驚くべき大胆にして魅惑的な音楽の萌芽である。よほどの自信がなければ決してできない業だろう。まずシューマンはこれに感銘を受けたに違いない。開始はシューベルトのように金管楽器だけとする。ただシューマンはトランペットを加えた。なぜか。より輝かしい、明るい音色と、明確な音の輪郭が欲しかったからだろう。春の交響曲だから。

『グレイト』冒頭は弱音で始まり、どこからかふわっと響きわたる。それは森からの神秘の声なのか、ロマンの国からのいざないなのか、「わたしたちがいつかいたことがあるとはどうしても思い出せないような、或る国に(聴き手を)つれていく」(『音楽と音楽家』149頁)。しかしシューマンのファンファーレは違うはずである。一聴してそれとわかる春の到来を告知する響きなのであり、「目覚めへの呼びかけ」なのである。

シューベルトからの影響の大きさは、旋律そのものにも現れている。シューベルトのドーレミ・ラーシドに対して、シューマンの自筆スコアはドードドド・ラシド(移動ド)だった。このラシドがまさに『グレイト』を彷彿とさせる(譜例 赤)。

しかしまさにそこが躓きの石となったのだった。シューベルトのはホルンだけだったが、加えられたトランペットが問題だったのだろう。だが楽器以前の問題もあった。『グレイト』では冒頭のドーレミですぐにハ長調とわかる。しかしシューマンはこれをドードドドと同音反復に置き換えたことで、調性は判断できなくなる。そして次のラシドで(ト)短調が示唆されてしまうのである。『グレイト』の名旋律を、若干、形を変えてに引き継いだ?ものの、調性も長調から短調に変えてしまうことになった。そして楽器の問題をも惹き起こした。

ショパンはその辺のことをよくわかっていたはずだ。『練習曲集』作品25-11「木枯らし」では、冒頭での単音の旋律をミから始めた。

ドから始めると短調のように聞こえてしまうからである。しかしミからはじめても短調での和声づけはできる。要するに、旋律だけだと「長調っぽく」は聞こえるが、まだ確定されない。そこで2回目はハーモニーをつけて、ハ長調の正体を十全に現す。ここで指示された pp は「やっぱりそうだった」という安堵感をにじませるようだ。それに対して冒頭のpは「ハ長調っぽいが、絶対ではない」という不安と緊張を孕むようでもある。

つまりショパンの構想は明快である。ハ長調が不安定から安定に達したところで、イ短調の奈落へ突き落とすのである。ハ長調?→ハ長調!→イ短調!!!といった具合である。いかにもショパン好みの書き方だが、短調への転落がもっとも効果的なのは、長調の安定度が確立されたその時のはずであり、ショパンはまさにそれを狙っている。表現と構造、効果と論理が完全に一致しており、明快な構想というゆえんである。

実際、シューマンの交響曲第1番冒頭と「木枯らしエチュード」はそっくりである。後者の出版は1837年であるが、ショパンからシューマンへの影響関係は何ともいえない。ただ、シューマンの方をもし「ド」から始めるなら、ト短調?→変ロ長調!→二短調!?という不明瞭で屈折した調の経過を辿ることになる。そこにどんな音楽的な、あるいは表現上の意味があるのか。音楽の展開に論理性を見いだすのは難しく、意図された効果もよくわからない*。

*ちなみに長調から短調への暗転は、ショパンがハ長調からイ短調という平行短調だったのに対し、シューマンは変ロ長調に対するニ短調という平行短調の属調が選ばれている。これは緊張を孕んだ5度上(属調)への展開から変ロ長調の主部へロマン的な3度下行によって推移・接近するという構想が見える。ニ短調の選択は十分に納得がいく。

もともとハーモニーなし・ありの対比の構造はコール・アンド・リスポンスに由来する。グレゴリオ聖歌では独唱による先唱に合唱の応唱が応えるという歌唱スタイルがある。後の時代でユニゾンだった応唱はハーモニーがつくようになった。こうしてムソルグスキーの『展覧会の絵』の冒頭が典型的に示すような、コール・アンド・リスポンスとなるのである。先唱のもとの機能は合唱を先導することにあり、率いる合唱と異なるような調で歌い出すというのは、由来から見れば、ありえない。

シューマンがもし「ド」から始めていたら、その「ありえない」例となる。しかしそれが「ありえない」ような効果を生むなら話は別だろう。しかし実際のところは、めざましいというよりは、よくわからない効果でしかないようだ。明るい音色のトランペットを加えたこととも矛盾しているようでもある。

春の到来を告げる「高所からの目覚めへの呼びかけ」のようなファンファーレが響く。全オーケストラの輝かしいトゥッティがそれに呼応し、復唱する。これは春への熱望に衝き動かされた「告知」である。しかしすぐにベトガーの詩の「雲の霊」が呼び起こす暗い厳しい冬の現実がよみがえる。しかしそれは春の確実な訪れに至る起点にすぎなかった。やがて「蝶が舞い、世界が緑に変貌し、次にアレグロで、春のすべてが生き生きと動き出す」。このような作者自身のイメージのためにもファンファーレの開始は「ミ」でなければならなかっただろう。

何が音を決定するか

和声法や対位法の規則・教義に正・誤はあるかもしれない。だが音楽で決定的な間違いはあるのかどうか。以上、論じてきたファンファーレの開始音においては、現行の「ミ」の妥当性が高いという結論に至ったかに見える。しかし純音楽的に「ド」が間違いだともいいきれない。そこにまさに作曲家の個性を読みとることができるかもしれない。

事実、1853年、シューマンは指揮者フェアフルストに「あの時にはホルンがうまくいかなかったので訂正したけれど、本当は残念だ」と書き送ったという。「ド」から始めたかったというのである。19世紀はトランペットの改良が進み、普及した時代である。事実フェアフルストは3度下げて演奏したという(前田昭雄、前掲書、106頁)。しかし、同じ1853年に、作曲者の原稿に基づいてスコアが出版された時は「ミ」だった。

作曲者の言葉も重要だが、最終的に「ミ」に「決定した」という事実も軽んじるべきではない。そこに作者の意志がはたらいていないはずがないからである。いずれにしても、文献的に明確な決着がつかない場合は、やはり「音楽から」判断すべきだろう。

「ド」から始めた場合、暗い短調の響きが示唆される。トランペットという明るい音色とのミスマッチだとか、「春への熱望」といったシューマン自身の言葉との矛盾とか指摘するとしても、何とでもいえる。たとえば「それこそがシューマン的なのだ。明るさと暗さの入り交じり。春を待ち望むうきうきした心のどこかに潜む憂い。この多義性こそがシューマンなのだ!」。そのとおりである。だから春への憧れを歌う「新緑」作品35-4(ケルナー詩)など、短調が支配的である。そう、シューマンの音楽は多義的なのである。

しかしピアノ曲や歌曲と交響曲ではジャンルが違う。心の密やかなニュアンスを明かすインティメートな楽曲と、開かれた聴衆に向かって演説するような音楽では、当然、表現が異なる。個人的なジャンルでは、親密な仲間に通じ合える多義的な表現で、密やかな心の綾を紡ぎ合う。しかし大向こうを唸らせる交響曲にはより一義的な表現が必要となる。

そもそもファンファーレとは凱旋を宣べ伝える一種の信号であり、一義的な音楽なのである。多くの場合、ユニゾンで第一声を伝えるが、すぐに長調で高らかと勝利を宣言する。マーラーの交響曲第5番の場合、そもそも栄光の楽器であるトランペットを短調のファンファーレで使うところに屈折したアイロニーがあり、きわめてマーラー的なのである。シューマンの「ド」場合、そこまでの徹底性もない。ただインティメートな楽曲にありがちな微妙なニュアンスのゆらぎがあるだけだ。

ファンファーレは一義的な音楽であり、また交響曲では一義的たるべき音楽なのである。つまり「ド」版はファンファーレらしくなく、交響曲としては場違いの感がぬぐえない。

以上の議論をとおして、わたし自身は交響曲としてふさわしいのは「ミ」から始まる一般に流布しているスコアだと考える。その意味で,シューマンの最終的な決断を支持する。しかし公的な音楽にきわめて私的なものをにじませた「ド」版こそがシューマン的だという意見も完全に排除できない。ただし現行版は楽器の制約への妥協の産物だとか、メンデルスゾーンのアドヴァイスで決定されたといったレヴェルで判断停止するはどうなのかと思う。そういった事情があったとしても、シューマン自身の最終的な決定を無視してはならない。たとえその過程に迷いがあったとしても、である。むしろこの問題はファンファーレとは、交響曲とは、楽器や音楽上のさまざまな問題、そしてシューマンという作曲家について考えるための格好の機会とするべきなのだろう。