秘められた再生のストーリー―キャロル・キング アルバム『つづれおり』

東京に出て来て、大学に入学した時、大流行したアルバムがあった。リリースは1971年だったのか。キャロル・キングの『つづれおり』である。

そのキャロル・キングの1973年の『セントラル・パーク・コンサート』を観た。伝説のライヴというふれこみである。ただ直近のアルバムの広報的なコンサートだったためか、『つづれおり』の曲は少なかった。それで、多少、欲求不満にもなり、2017年のロンドンでの『ハイドパーク・コンサート』の録画を観た。74歳になるキャロル・キングによるアルバム『つづれおり』を再現するライヴである。

画像には原詩もついていた。観ていて、じわりと来るものがあった。そして、次第に、驚くべき発見をしたように感じた。ここにはストーリーがあったんだ! 

わたしの目覚め、わたしの始まり

『つづれおり』に収録された曲はこうなる。

1.空が落ちてくる I Feel the Earth Move
2.去りゆく恋人 So Far Away
3.イッツ・トゥ・レイト It’s Too Late
4.ホーム・アゲイン Home Again
5.ビューティフル Beautiful
6.幸福な人生 Way Over Yonder
7.君の友だち You’ve Got a Friend
8.地の果てまでも Where You Lead
9.ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー Will You Love Me Tomorrow?
10.スマックウォーター・ジャック Smackwater Jack
11.つづれおり Tapestry
12.ナチュラル・ウーマン (You Make Me Feel Like) A Natural Woman

ちなみにレコードでは第7曲の「君の友だち」からB面となっていた。ご存じの70年代を代表する、いやポピュラー音楽における最大のヒット曲のひとつである。

アルバムはけたたましいピアノのリフから始まる。第1曲「空が落ちてくる」である。「足もとの大地が揺れるのを感じる I feel the Earth move under my feet」という歌い出し。「空が転落するようだ I feel the Sky tumbling down」と続く。何か大事件が起きたというのである。一体何が? 詩を引用した方がいいだろう。

ああ あなたの顔を見ると
5月のようにメロウになっちゃう
ああ 最愛のひと わたしには耐えられない
あなたがそんな風にわたしを見ると

Ooh, baby, when I see your face
Mellow as the month of May
Oh, darling, I can’t stand it
When you look at me that way

つまりわたしの心が震えるのは「あなた」のせいだ、というのである。では、なぜそれが大事件なのか? 次のラインがそれを解く鍵となる。

ああ 最愛のひと あなたが近くにいて
わたしの名をやさしく呼ぶと
わたしの感情がわたしのでなくなるのがわかる
あなたなしではいられないの ベイビー

Ooh, darling, when you’re near me
And you tenderly call my name
I know that my emotions are something I just can’t tame
I just got to have you, baby

恋は甘い気分に浸らせてくれるものでも、ただの遊びでもない。キャロル・キングがとらえたのは恋、あるいは愛はもっと根源的である。それはわたしをわたしでなくするほどのもの。自分自身が知らなかった自分がわたしの中で鼓動し出す。だから大地が動き、空がひっくり返る。

こんな感情が自分の中にあったという驚きは、新たな自分の発見であり、目覚めにほかならない。それがあなたとの出会いで惹き起こされたのである。

人間はひとつの可能性でもある。あるきっかけで自分でも知らなかったわたしが現実となる。新しいわたしの始まりである。「空が落ちてくる」はアルバムを開始する格好のナンバーとなる。

現実への眼差し

あなたへの愛は本当のわたしを開示したのかもしれない。偽りはない。もはやもとの自分には戻れない。でも現実はそう甘くはなかった。第2曲「去りゆく恋人」の原題は「とても遠く離れている So Far Away」であるが、離れているのは場所だけではない。

とても遠く離れている
ひとつのところにとどまる人はもういないの?
わたしのところで あなたの顔が見れたらどんなにいいか
でもそんな思いは時間が過ぎたことを忘れさせるだけ
ずっと前 わたしが手を伸ばすと あなたはそこにいた
あなたを再び抱きしめることができたらどんなにいいか
それをどんなに望むことか でもあなたはずっと遠くに離れてる

So far away
Doesn’t anybody stay in one place anymore?
It would be so fine to see your face at my door
Doesn’t help to know you’re just time away
Long ago, I reached for you and there you stood
Holding you again could only do me good
How I wish I could, but you’re so far away

明らかに so far away は文字どおりの空間としての距離だけではい、時間的にも離れてしまったのである。その空白に喪失感が漂う。あなたと時と場所を共有できない世界にもはや「わたし」はいない。しかしもとには戻れない。漂流するしかない。詩の最後は「ありがとう あなたはとても親切だった Thank you, you were very kind」とある。

日本語には便利な言葉がある。誰が悪いのでもない、ただ「縁がなかった」のである、

それにしても、なぜそうなったか。第3曲のあのヒット曲「イッツ・トゥ・レイト」がそのヒントとなる。物理的、および時間的距離の根源にもうひとつの距離があった。

むなしく時を浪費する中で、あなたは不幸、そしてわたしはバカのよう。二人の関係を修復しようともしたけれど、時すでに遅い It’Too late。二人の間に起きたことは次のようにいうしかない。リフレインである。

手遅れよ ベイビー もう手遅れ
マジで何とかしようとしたけれど できなかった
わたしの中の何かが死んだの そのことを隠せない
それに偽ることもできないの

And it’s too late, baby, now it’s too late
Though we really did try to make it (we can’t make it)
Something inside has died and I can’t hide it
And I just can’t fake it

心の中で何かが「死んだ」。そういうしかないのである。精神的に決定的な距離が生じたということである。どうしてそうなったか、理由はわからない。ただ死んだものは生き返らないし。壊れたものはもとに戻らない。

死んだのは愛だったのか。自然に訪れた愛を、人為的に修復するのは不可能だったのか。でも、第3ヴァースにあるように「二人がもっていたもの、かつてどんなにかあなたを愛したことが、今でもうれしい Still I’m glad for what we had, and how I once loved you」。なぜなら愛に偽りはなかったからである。

第1曲「空が落ちてくる」では、あなたの愛との出会いの衝撃は、本当のわたしの発見であり、故郷を見い出したことを意味していた。ここでいう故郷とは、生まれ育った土地というより、魂の安住の地「ホーム」なのだった。だから第4曲「ホーム・アゲイン」では、あなたを失った今、再びわたしにホームが築けるのか不安だと歌われる。

失恋を経験して、もう恋はごめんだ、というのではない。だから「ただ(新しい)あなたに出会えるまで、わたしは幸せにはなれない I won’t be happy till I see you alone again」と歌われる。わたしの人生には他者が必要であることがわかったのである。『つづれおり』はわたしがわたしであるための「あなた探し」のアルバムなのである。

曲は暗くはない。そこにキャロル・キング的なものがあるのだろう。第2曲も第4曲もマイナーの曲調でもよかったはずだ(「イッツ・トゥ・レイト」はマイナーというよりモード風か)。しかし支配するのはメジャーであり、決して落ち込んだり、低迷したりはしない。あくまでも前向きなのである。

曙光―再び世界と出会う

そして第5曲「ビューティフル」で新たな光が射し込むようだ。

「あなた」を失い、やっと見つけた「ホーム」も消滅した主人公だった。しかし彼女はめげたりはしない。そもそも第4曲でも歌の主人公が悩んでいたのは、ホームが向こうからやって来るかどうかではなかった。新しい男性との出会いがあるとして、それを再び魂の安住の地とできるか、ホームがつくれるかだったのである(Sometimes I wonder if I’m never gonna make it home again)。幸運を待つのではなく、あくまでも主体的なのである。

だとしたら、ホームを求めて世界に歩み出すとしたら、どうする? その答えが「ビューティフル」である。第1ヴァースを引用しよう。

毎朝 あなたは微笑みを浮かべて起きなきゃ
そしてあなたの心の中の愛をすべて世界に見せなきゃ
そうすれば 人々はもっと優しくしてくれる
あなたは気づくでしょう そうよきっと
自分が感じてるとおり あなたは美しいと

You’ve got to get up every morning with a smile on your face
And show the world all the love in your heart
Then people gonna treat you better
You’re gonna find, yes you will
That you’re beautiful as you feel

「あなた」に向かっていってるようだが、わたしへの鼓舞でもある。魂の故郷を見いだすための戦略、武器があるとしたら、それは笑顔だ。もっといえば、世界を肯定することだ。否定からは何も生まれない。サビではキャロルの「思索」も垣間見えせる。

わたしはたびたび自問してきた
涙がだたの子守歌でしかない世界での悲しみの理由を
もし何らかの答えがあるなら 狂気を止めることができるのは愛かも
多分 違うかも ああ でも わたしたちができる唯一のこと

I have often asked myself for reason for the sadness
In a world where tears are just a lullaby
If there’s any answer, maybe love can end the madness
Maybe not, oh, but we can only try

「ビューティフル」は内から外へ、内省から行動への転換点となる。

だが第6曲「幸福な人生」では生の場としての現実より、はるかな「約束された地」へ眼差しが向けられる。原タイトルの Way Over Yonder の“yonder”は「遠くに」「向こうに」といった意味のようだが、ここで古語が使われたのは『旧約聖書』が意識されているからだろう。連想は第3ヴァースの「毎日、川に蜜が流れる地へ To the land where the honey runs / In rivers each day」という表現にもうかがえる。

必ずその地はある。魂の安住の地は約束されている。音楽はゴスペル調のワルツとなる。

そしてあの第7曲「君の友だち」が来る。独立した大ヒット曲ではあるが、『つづれおり』の流れの中で位置づけるとどうなるか。

「君の友だち」は「ビューティフル」のいわば強化版である。「ビューティフル」は笑顔で世界と対峙しよう、生を受け容れようというものだった。「君の友だち」はさらに世界へ向かってはたらきかけようというのである。きみが困っていたら、手をさし伸べよう。だってわたしたちは友だちじゃない。解説は不要だろう。

この時代、サイモンとガーファンクル『明日に架ける橋』(1970年)、エルトン・ジョン『君の歌はぼくの歌』(1970年)など、連携を歌う曲が空前のヒットとなり、混乱と断絶の60年代を乗り超え、世界の気分と方向を示したようだった。

それに「呼んでくれれば、いつでも駆けつける」というのはポピュラー音楽の常套的なテーマでもある。

「君の友だち」もそうした背景なしには語れないだろう。だがアルバムに内在するストーリーにしっかり組み込まれているのも確かなのである。決して流行のただ乗りやクリシェの上塗りではなかった。アルバムの重心であり、何よりもキャロル・キングの信条の告白だったことが曲を普遍化し、全世界に感動を呼び起こしたのだろう。

愛への帰還

第8曲「地の果てまでも」については『ハイドパーク・コンサート』で興味深いエピソードが語られている。アルバムが出た当時、ウーマン・リブ(女性解放運動)が高まっていた。それで「どこまでもあなたについていく」といった内容の曲はとりあげにくかったというのである。男に従う女なんて……!

だから「地の果てまでも」はあまり陽の目が当たらなかったという。

男尊女卑時代の反動として「強い女」を目指す時代だった。だがその時の「強い」は男を基準としていなかったか。では女に従う男はだめなのか。それもいいではないか。個々のあり方がある。今はどうなのだろう。現代は多様性の時代といわれるが、伝統的な価値観に対しては必ずしも寛容とはいえない風潮がないか。

これまで見てきたように、キャロル・キングは真実の女性であり、信条の人である。彼女が愛した人を見つけたら、ついていくという歌をうたったとしても、よくあるポップスの真似だとは思えない。さらには流行なんか関係ない。多分、有史以来、男だって女だって愛する人について行きたいだろう。

確かなことは、「ついていく」といわせる愛する人の出現である。

こうしてキング/ゴフィンのかつての名曲「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」がよみがえる。ただしアルバムの穴埋めのためではない。これまでの流れの中で、きっちりと位置づけられるのである。

50年代、ローティーン向きの商品だったポップスとしては、セックスがほのめかされているということで、この曲は物議を醸したともいう。しかしそこにキャロル・キングは魂が震えるような曲をつけた。今回は、ポップ・チューンとしてではなく、あるべきす姿でみずから歌ったのである。

誰が何といおうと、これは普遍的なテーマではないか。「愛はいつまで続くのか」。愛の存続性の問題である。なぜそれが魂に触れるかというと、愛の存続の問題はわたしの存在にかかわっているからである。そして「愛と存在」こそ、『つづれおり』が起点から追求していたテーマだったのである。こうして「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」はアルバムの中であるべき位置にぴったりと収まるのである。

なぜなら主人公は新しい愛に出会ったからである。愛を獲得したよろこびはそれを失う恐怖とない交ぜになっている。一度経験したからこそ、それが身に染みる。「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」の切なさは存在のあやうさの震えなのである。

スケルツォと自省

たとえば交響曲では、通常、4つの楽章をひとまとめにして1曲とする。これは作曲者が音楽に込めた世界観の全体像を表明するためだが、4つのうち3番目(時には2番目)にはスケルツォ(原意「冗談」)という楽章が置かれる。これは求心的な世界観の追求の中で、ちょっとした息抜き、あるいは視点を広げる機能をもつ。そうすることで、交響曲全体をより包含的とし、求心性そのものを高めるのである。

交響曲の多楽章制はポピュラー音楽ではアルバムにあたるといえよう。アルバムは作者の世界観の全体を表現する場として、ヒット狙いのシングルと区別される。そして『つづれおり』では「わたしの存在と愛」というテーマを展開していたのである。そうしたアルバムの中で、第10曲「スマックウォーター・ジャック」はちょうどスケルツォにあたるといえるだろう。

スマックウォーター・ジャックという無法者の歌である。かつての西部の話なのだろう。ショットガンを手にした彼は誰かまわず撃ち殺した。しかし法の番人も黙っていなかった。ジャックは絞首刑にかけられた。裁判もなく。みんなよろこんだ……。そんな話である。

わたしはわたしの実現のために自省し、生きるべき道を歩んできた。しかし窓の外を見てみるといい。ジャックは西部劇の登場人物であるだけじゃない。今でもその辺にいる。荒くれ者の乱射は絶えず、法はあるようでないようなもの。それがわたしが生きる世界の現実である。それがわたしの心の外で起きていることだ。現実への一瞥が視野を広げるとともに、シャッフル風の軽快なナンバーが音楽的にも『つづれおり』に幅をもたせることになる。

だが外に向けられた目は再び内へ転じる。そこには幻とも夢ともつかない世界が広がる。第11曲「つづれおり」である。みずからの半生を幻想の糸で紡ぎ出す。

わたしの人生はつづれおりだったという。それは変転してやまない幻影であり、魔法でもある。見ることで感じられるつづれおり。手にとり、確かめることはできない。つづれおりとはキャロル・キングのゆたかな想像力であろうか。そこから不思議な物語が流れ出す。

かつて空の真ん中に 柔らかで銀色の悲しみが浮かび
幸運の男が現れた 彼は通りすがりの漂流者
ボロをまとい 皮を巻きつけて
色とりどりのコートを着ていた 
片側が黄色 もう一方が緑

彼はうろつきまわった 
何のためにそこにいるのか
どこに行くべきかも知らないように
一度 木に手を伸ばした
ぶら下がる黄金の何かをとろうと
でも おろした手には何もなかった

わたしのつづれおりの中で
彼はすぐに轍(わだち)沿いの道から
川辺の石に座った
そしてヒキガエルに変わった
誰かの邪悪な呪文にかかったようだった
苦しむ彼を見て わたしは泣いた
彼のことをよく知っていたわけではないけれど

悲しみに暮れて じっと見ていると
突然 灰色で亡霊のようなものが現れた
長く伸びたあごヒゲの下
もっとも深い暗闇の時に
わたしは喪服を着た彼を見たことがある
今 わたしのつづれおりは ほどかれつつある
彼はわたしを連れ戻しに来た
彼はわたしを連れ戻しに来た

この詩に詳細な解釈が必要だろうか? 確かに幻想的な詩だが、また現実的であるのかもしれない。

個々の細部にこだわり、象徴的に解釈しようとする分析もある。だがそうすることで、曖昧と複雑、それに恣意に深入りすることになりかねない。ここでは要点だけを指摘しておこう。

かつてわたしはハッピーな想像力(つづれおり)に遊ぶ女の子だった。それは色彩豊かな感覚の世界だった。しかしやがて悲しみを知った。ある男がもたらしたのである。感情が芽生えたことは、わたしが目覚めたことだった。だが男はヒキガエルになってしまった。悲しみと闇の中で別の男が現れた。彼はわたしを連れ戻しに来たのだった。

アルバムをイメージの世界で要約しているようではないか。「つづれおりは ほどかれつつある」というのは、イメージの世界から現実に足を踏み下ろしたということか。

わたしへの帰還

アルバムを締めくくるのは第12曲「ナチュラル・ウーマン」である。印象深いラインがある。

そして わたしの魂が遺失物保管所にあった時
あなたがやってきて 引きとってくれた

And when my soul was in the lost-and-found
You came along to claim it

前曲「つづれおり」の最後のラインで現れた「彼」が来たに違いない。こうして、失われ、誰のものか、どこに属するかもわからない存在だったわたしが、わたしになった。だからリフレインではこう歌われる。

あなたはわたしに感じさせてくれる
(自分が)自然な女性であるように

You make me feel
Like a natural woman

「自然な女性」というのは、あるがままの自分、もっといえば、ホームでくつろぐわたしである。あなたによって、わたしはわたしに帰還したのである。

魂の安住の地=ホームとは、自分が自然でいられる他者との時空だった。

こうしてアルバム『つづれおり』は「わたしの目覚め」から「わたしへの帰還」の輪を閉じて、ストーリーは完結する。完璧なコンセプト・アルバムである。無意図的にこんな構想が生まれるはずがない。

もし「ナチュラル・ウーマン」がLGBT信奉者?にとって気に入らないなら、「ナチュラル・マン」でもいいし「ナチュラル・ミー」でもいい。ともかく、人生が本来の自分に到達するための旅だとしたら、その道しるべに他者とのかかわりがあるということである。

だからといって他者に寄りかかればいいというのではない。「ビューティフル」や「君の友だち」で歌われているように、わたしの世界への愛あるはたらきかけが重要なのである。

アルバムの根底にあるもの、キャロル・キングの根幹にあるのは、自己は他者との関係のうちにあるという実感である。その真実性がアルバムを普遍化している。

人と人を結びつけるのが愛であり、音楽だとしたら、キャロル・キングはまさに最高の意味でミュージシャンだった。

自伝を読んだことがあるが、キャロル・キングは3回離婚し、4回目の結婚で幸せな人生を築いたのではなかったか。実生活でも彼女は現実主義者であると同時に理想主義者であり、関係の中に人間を見る大いなる人間賛美者だったのだろう。