「感謝の歌」の演奏論―マケラの『田園』を聴いて、思いつくままに

初めて聴いた交響曲はベートーヴェンの『田園』だったと思う。小学校の音楽の授業だった。大胆にも、先生が授業で1枚のクラシック・レコードを丸ごとかけるという英断に出たのだった。結果は惨憺たるものだった。お喋りが飛び交い、席を離れる生徒もいて、ほとんど授業にならなかった。だが、騒音の中で、わたしは目を閉じて最後まで聴いた。それが『田園』だった。

しかし、その後、『田園』はベートーヴェンの作品の中でももっとも聴かない曲になったかもしれない。

ところが、最近、話題の指揮者の演奏を聴く機会があった。特に関心をもったのが第5楽章なのだが、久しぶりにスコアを引っぱり出してきた。そして、いくつかの演奏を聴くうちに、演奏上のポイントが見えてきたような気がした。

「絵画的描写より感情の表現」

ベートーヴェンの交響曲第6番ヘ長調作品68についての解説は不要だろう。作曲者自身が「田園」というタイトルをつけ、各楽章には音楽内容を説明する表題があるから、わかりやすい。全体は交響曲としては例外的に5楽章からなるが、緩いプロットによって結びつけられている。

今さらではあるが、復習しておくと、「田舎に着いた時の愉快な気分」(第1楽章)―「小川のほとりの情景」(第2楽章)―「田舎の人々の楽しい集い」(第3楽章)―「嵐、雷鳴」(第4楽章)―「羊飼いの歌、嵐の後の喜びと感謝の気持ち」(第5楽章)となる。

自然に抱かれ、解きほぐされた心が、嵐を経て、喜びと感謝に浸るという。明らかに『田園』の結論的な到達点は第5楽章にある。今回、フィナーレに興味をもったゆえんである。

『田園』作品68は『運命』作品67と対を成す作品とみなされる。しかし純音楽的な構築性を志向する『運命』と表題による表現上の支えをもつ『田園』ではスコアの凝集度が異なる。それにもかかわらず、両者には類似性がある。まず最後の楽章が前の部分とアタッカで結びつけられ、短調から長調へ向かう構想である。いわゆる「暗黒から光明へ」である。

『田園』の場合、第4楽章から第5楽章は「嵐から喜びと感謝」だという。『運命』の場合はどうか。表題がないだけに、言葉による安易な表現に頼るべきではないが、「苦悩を突きぬけて歓喜へ」といった解説が現れるのもよくわかる。『運命』が強固な構築性を誇るのは、ほかならぬこのような表現を高次に凝縮させるためだった。

つまり『運命』と『田園』は「暗黒から光明へ」のそれぞれのヴァージョンなのである。2曲が対をなす根本的な理由がここにある。ひとつの理念、同一の構想の『運命』は抽象的な、『田園』は具象的な表現なのである。

『運命』も『田園』も、第1楽章のソナタ形式における展開部が、比較的、音楽的高揚に乏しいといわれることもある。明らかに『エロイカ』のような広大な展開へ踏み込んでいない。しかしこの類似性も、2曲の重心がともに最終楽章にあることを示唆している。第1楽章での大きなクライマックスは避けられ、結論的なフィナーレに「とっておかれる」。これらはフィナーレ・シンフォニーなのである。

だからやはり第5楽章が気になる。それも「描写よりも感情の表現」の音楽として、である。

羊飼いの歌から感情の表現へ

純音楽的に面白いと思うところがある。クラリネットの「羊飼いの歌」から第5楽章が始まる。パストラルな曲での定番ともいえるドローンがそれを支える。CとGの5度のドローンである。当然、ヘ長調のⅤが示唆されており、主和音Ⅰ(F・A・C)への解決待ち状態である。

そして羊飼いの歌がホルンに移ると、もとのドローンはそのままで、今度はF・Cのドローンが加わる。こうしてC・GにF・Cが重なるのである(第5-8小節)。まるでドミナントとトニックが同時進行するかのようではないか。こんなのあり? しかしその効果は、美しい。天才を感じるのはわたしだけか。

上の譜例をごらんいただきたい。ドローンが支配的な最初の8小節間の羊飼いの歌はリズムの刻みはない。だから時間感覚は希薄で、音楽の推進力は弱く、テンポ感はあまり感じられない。旋律がヴァイオリンに移ってはじめてバスが動き出し(第9小節)、拍子の波の上で、音楽は一定のテンポに乗る。

こういういい方もできるだろうか。ドローン上の8小節はわたしの時間の外にある。いわば外部からの呼びかけであり、予告である。もっと正確を期せば、まさに「羊飼いの歌」を描写するようなホルンこそが真の予告にふさわしく、その前のクラリネットは予告の予告ともいえる。ちなみにいずれも5小節の完結していないフレーズである。

そして、それに呼応して、ヴァイオリンが8小節の「主題」を歌い出す。「感謝の歌」とでもいっておこうか。断片的なモティーフは安定した歩みのうちで「音楽」となる。その音楽はわたしの内なる時間の中で息づく。予告はわたしの現実となる。

「羊飼いの歌」は「喜びと感謝の気持ち Frohe und dankbare Gefühle」を呼び起こすのである。こうして「描写より感情の表現」というベートーヴェンの言葉が具現化される。

感情とテンポ

遠くからの羊飼いの呼びかけはわたしの内にある感情を目覚めさせたのである。その感情とは「喜び」であり「感謝の気持ち」であるという。

最初に主題が第1ヴァイオリンで歌われる時、まさに「感謝の気持ち」がにじみ出るかのようだ。正確にいえば「気持ち」は「感情」ではないが、敢えていえば、畏敬の念がこもった静かな幸福感がひたひたと湧き上がるようだ。しかしそこからの感情が高まりがスコアリングされている。

8小節の主題は、まずpで出る。それから第2ヴァイオリンに移されて、クレッシェンドが始まる。そして最後にヴィオラとチェロに回され、フォルティッシモに至る。当然、楽器の数も膨らむ。だが見落としてはならないのはリズムである。

最初は小節線の拍節を刻んでいただけのバスに、やがて八分音符の刻みが加わり、これがいわゆる基本ビートとなる。八分音符にはそれを二分する十六分音符のリズムも付いていたが、最後にそれが三分化される。この三連リズムは高揚をいやが上にも高める。

こうして、ひたひたと迫る幸福感、「感謝の気持ち」が大いなる「喜び」へと高まるようだ。

これをどう表現、演奏するか。フルトヴェングラーなら……。彼の『田園』を聴いたことはなかったが、案の定、思ったとおりだった。

主題の最初の8小節は遅めのテンポでしみじみと歌い出され、次の8小節で徐々に加速する。そして最後の8小節で大きく盛り上がるのである。これはある意味で理にかなっている。なぜなら感情の高揚は、音楽では、普通、テンポの急迫で表現されるからである。ベートーヴェンが「感情の表現」というなら、フルトヴェングラーの方法論は理解できる。

思ったとおりだったといったが、この後、まだアッチェレランドするのまでは予想できなかった。

感謝の思いはあくまでも深く

しかしベームは違う方法論をとる。主題の歌い出しは遅めで、フルトヴェングラーと似ているが、アッチェレランドはしない。ほぼイン・テンポで押し通すのである。

新客観主義の洗礼を受けた世代の解釈といえばいいか。フルトヴェングラーの方法論を知らないわけではないが、その場その場の感情に没入することはない。テンポの変動の幅を抑えることによって、楽曲の古典的な統一感も視野に入れる。だから主題の再現もきわめてスムーズである。

結果として、ベームの解釈では、荘厳な盛り上がりではあるが、有頂天の喜びはない。感謝の念をしみじみと噛みしめるような喜びとでもいえばいいか。

ただ『田園』のスコアは必ずしも凝集度を誇るものではない、と書いた。常に緻密に織られているわけではない。主題が戻って来ると、そうした思いが否めない瞬間も感じられるようだ。展開的な部分に入って、音楽的密度がやや低下するように聞こえるのである。

これは明らかにテンポの問題だろう。スコアに内在するかもしれない問題を見越したテンポ設定かかどうか、である。少なくともベームの演奏はそんな思いを抱かせるのである。

気鋭の新人指揮者の『田園』

そもそもこの一文を書かせたのは、あるいは『田園』を少し調べてみようと思わせたのは、最近人気の指揮者の演奏を聴いたからだった。クラウス・マケラである。1996年、フィンランド生まれの新鋭の指揮者である。シャープでわかりやすい指揮、明快で俊敏なリズム感。オーケストラをドライヴする能力に長けているのはよくわかる。磨き抜かれた音もクリアで、トウッティも透明である。

ただ、今回、問題にするのは、あくまでも解釈である。マケラはインタヴューでフルトヴェングラーやクーベリックなどの大指揮者の名前を上げ、ただ彼らの模倣はできないといっていた。とはいえ第5楽章のテンポはベームに近いと感じた。

遅めのテンポである。音楽が膨らんでいくところで、マケラもテンポを加速させない。むしろイン・テンポ感はベームより強いくらいで、フォルティッシモで壮大に盛り上げる。フルトヴェングラー的アッチェレは古いと感じているのか、ベームの行き方をさらに徹底しようとしたのか、わからない。

ただマケラはあの盛り上げの後、下の部分で、若干テンポを上げる。まるで重荷を振り払うように、音楽が生き生きと動き出すのである。

フルトヴェングラーもここでさらにテンポ・アップしていたが、マケラにはアッチェレランドはない。またベームの追随でもないことがわかる。ただし、主題が戻って、再び遅めのテンポが一貫する。そのため、中間部でやや音楽的密度の低下を感じさせるといった、ベームの解釈に内在するかもしれない問題点を引き継ぐことにもなる。

だが、実際、上の第32小節以降(及び再現の第140小節以下)を速くする演奏習慣はなくはない。とはいえ、純粋に音楽的にいえば、短長♪♩というリズムは長♩にエネルギーが流れ込むため、シンコペートするような性格となる。だから駆け出すというよりは、ゆったりと広がるイメージなのも確かである。

演奏は何でもかんでも音楽にとっての自然に忠実であるべきだというのではない。だからここでテンポを上げるのは、たとえ自然の逆、不自然であっても、可能だし、効果的な場合もある。裏技ということになるだろう。だが、少なくともわたしは、ここでの裏技に必然も説得力も感じない。

マケラの演奏を聴いて思うのは、後から来る者の難しさである。説得力ある新しさは、今後、どれだけ可能なのだろうか。

人生の感謝―ワルターのアレグレット

フルトヴェングラー、ベーム、マケラは感謝の歌のテンポをほぼ同じテンポで始めていた。少し遅めといっていいだろう。感情移入するためであることはいうまでもない。テンポ記号でいえば、アンダンテくらいのイメージだろうか。だがここでスコアに戻ろう。ベートーヴェンは「アレグレット」を指示しているのである。

ベートーヴェンのアレグレットといえば、交響曲第7番第2楽章の「不滅のアレグレット」がすぐに想い起こされる。アンダンテは歩行性を秘めたゆっくりだが、アレグレットではその歩行性がより強化される。だから「不滅のアレグレット」は、短調の暗さに沈むことなく、足どりは決して重くならない。テンポはメトロノームいくつの数値の問題ではなく、音楽の性格に起因する。

だから「感謝の気持ち」の音楽だとしても、アレグレットである以上、テンポは停滞したり、淀んだりしないはずである。ベートーヴェンの指示にはそういう思い・意図が反映されていると考えられる。そしてワルターの『田園』のテンポ設定にはそんな含蓄が感じられるのである。

ベームなどよりわずかに速めなワルターのテンポを聴いて、感情の深度が浅いとか、表現があっさりしているという意見もあるかもしれない。とはいえ、感謝の気持ちは人の歩みを緩めるだろうか。それとも喜ばしい歩みへ向かわせるだろうか。ベートーヴェンが意図したのは後者ではなかったか。

それにワルターのアレグレットは楽章を通じて基本的に一貫しながら、中間部のあの密度の「陥没」を感じさせることはない。つまり楽章の世界を包含したテンポだということである。すると「喜ばしい感謝」が音楽全体を包む。

ここでいう「歩み」とは比喩的に「人生という道における歩行」といってもいい。ベートーヴェンが究極的にいいたかったのは感謝そのものというより、感謝に裏づけられた生だったのかもしれない。