歓喜はすでに途上にあった―ベートーヴェン『第9』のレチタティーヴォを読む

『第9』のフィナーレ、940小節に及ぶ大規模な楽章だが、ベートーヴェンは声楽が入る前の器楽の導入で200小節以上の音楽を書いた。これだけでも驚異的だが、その工夫も見逃せない。歌詞がある声楽と歌詞のない器楽の違いを利用して、有機的・構築的なイントロとしたのである。その時、言葉という情報をもたない音楽の特性を活用した。

第4楽章の冒頭部分については、一般的に次のように解説される(英語版 wikipedia からの引用)。

イントロダクションでは、先立つ3つの楽章からの音楽的素材(そのままの引用ではない)が連続して提示され、低弦でのレチタティーヴォによって却下される。続いて、チェロとコントラバスに「歓喜への唱歌」のテーマがついに登場。3つのヴァリエーションを経て、ベートーヴェン自身の手になる歌詞を歌うバリトン・ソロによって、交響曲で初めてとなる人声が導入される。

ベートーヴェン自身が書いた歌詞とは「おお友よ、このような音ではない! もっと心地よい、歓喜に満ちた調べを」というもの。シラーの詩への導入であるのはもちろんだが、器楽の前奏への注釈ともなっているのは明らかである。後と前を繋いでいるのである。前奏との関連でいえば、レチタティーヴォによる前楽章の音楽の却下を言葉で明らかにしていることになる。

しかし、本当に「却下 dismiss」なのか。

そこで、歌詞のないレチタティーヴォから、音楽の意味を読み解いてみよう。そのために、簡単な音楽常識を確認しておこう。ベートーヴェンの音楽は基本的に長調と短調で書かれている。「明るい」長調と「暗い」短調。この「明るい」「暗い」という二元的な対立に、音楽の天才たちはさまざまな含意をもたせたのだった。

たとえば『第九』フィナーレのレチタティーヴォのレヴェルでは、「却下」は長調か短調か? 却下の反対を「受け入れ」だとすると、これも二元対立ということになる。否定と肯定のような対項関係である。これを音楽で、言葉なしで、表現するとなると「却下-短調」「受け入れ-長調」という図式を一般的だとみなすのに異議はあるだろうか

この図式で音楽を読み解く。まず第1楽章の冒頭が呼び出され、次のレチタティーヴォが出る。短調を青、長調を赤で示す。

第1楽章冒頭の回想は、レチタティーヴォによって、即座に、ト短調の減7度の音程で断ち切られる。さらにハ短調に行くように見せかけて、ハ長調(ヘ長調のドミナントといった感じ)に辿り着く。そして次に第2楽章のテーマが「召喚」される。再びレチタティーヴォが応える。

今度は安定したヘ長調である。最初のF-Cの動きなど、確固としたものがある。しかし完全な解決はなく、最後のEsで「?」となる。続いて第3楽章の旋律が木管に出る。低弦が応える。

最初は変ホ長調の第5音Bを引きとるものの、変ト長調へ流れ、「何か違うな」という感じ? しかしにわかに嬰ヘ短調(変ト長調のエンハーモニック同主短調)をかすめて、嬰ハ短調へ行く。

この後、「歓喜の主題」の断片が現れ、レチタティーヴォは完全なニ長調でそれを「受け入れる」。チェロとコントラバスによる歌詞のない語りは「おお友よ、これではない!」という言葉より、何と豊かな表現のニュアンスをもつことか。それに上の3つのレチタティーヴォは単純な「却下」ではないことがわかる。

「却下-短調」「受け入れ-長調」の図式をもち込むなら、1回目と2回目は長調と短調の間を揺れており、つまり却下と受け入れの間のさまよいのニュアンスを示していることになる。1回目は断固とした感じの拒絶から模索へ動くよう。3回目は迷いから、「やっぱり違う!」というかのよう。

しかし、問題は2回目である。安定した長調は、完全に「受け入れ」なのである。

「レチタティーヴォは却下」はあまりにも単純すぎる。ベートーヴェンは先立つ3つの楽章のうち、第2楽章を肯定しており、「受理」していたのである。言葉は「却下」「受け入れ」の白黒でしか表現できない。しかし二元的な意味世界を器楽は超える。

だがベート-ヴェンはなぜ第2楽章を受け入れたのか。スケルツォにみなぎるディオニュソス的ともいえる乱舞が「歓喜」と通底しているからか。いやもっと単純に説明できるだろう。次の譜例は第2楽章の主部のいわゆる第2主題的なテーマ(1回目はヘ長調、2回目はニ長調となる)、そして下はトリオのテーマである。

これは明らかにフィナーレの「歓喜の主題」(譜例下に示す)の伏線であり、前触れである。『第九』の結論ともいえる主題はすでに前に出ていた。頂への登攀の途上ですでに現れていたのである。それが第2楽章だった。だからこそベートーヴェンは却下できなかったのである。