心の耳は聴いていた―ベートーヴェン 交響曲第9番

『第9』の冒頭は、ベートーヴェンの数ある天才的な霊感の中でも、特筆すべき頁だろう。作曲家なら誰でも驚嘆し、興奮し、激賞するにちがいない。まるで世界の始原からのような響きが届く。何かが降り注ぐようにリズムが飛来し、次第にクレッシェンドする。そしてユニゾン主題の巨大な落雷。ブルックナーなんか、完全にここから出ている。いや、感動するのは作曲家だけじゃない。聴き手はすべてその偉大な世界に引き込まれる。

たとえばいわゆる「ブルックナー開始」が『第9』の決定的な影響受けているのは疑えない。ブルックナーの交響曲の多くの場合、曲頭は、主題の提示というより、主題へ向かうプロセスのように開始される。『第9』なしには考えられない。同じニ短調の第3番と第9番も例外ではない。しかし第3番冒頭で雄勁なリズムを刻み、音楽を力強く推進するバスの音はDである。第9番の厳粛な弦のユニゾンによるピアニッシモもDである。ニ短調の主音である。しかしベートーヴェンの『第9』はどうか。

Dではなく、AとEなのである。いわゆる空5度であり、茫漠とした、神秘的な響きを醸し出す。なぜそう聞こえるかというと、三和音を決定する第3音=性格音を欠いているため、和音としての性格が定まらないからである。もし第3音がCisなら「明るい」長三和音、メジャー・コードAである。もしCなら「暗い」短三和音、マイナー・コードAmである。しかしどちらも示されないため、漠然としており、何かわからないがゆえに、神秘的なのである。まるで虚ろな洞窟のほの暗い奥をのぞくような感覚にとらわれる。

ちなみに完全5度の響きは、西洋の歴史上では、中世の音楽の特徴である。個人を捨象した無記名の時代にふさわしい、透明で無個性の音響といえようか。ルネサンスが「野蛮な響き」として一掃した和声様式でもある。また現代ではエレキ・ギター奏法で用いられる空5度をパワー・コードといったりもする。『第9』冒頭のコード・ネームはA5となる。明るくも暗くもない、原始的ともいえる力強いサウンドは、特にハード・ロックの重要な要素となる。空5度がもつ根源的で、野性的ともいえるイメージには、そうした歴史的・文化的背景があるのだろうか。

もう一度確認しておこう。『第9』の冒頭は、来たるべき巨大な何かの始まりを告げる天才的な開始法だった。しかし「何か」はブルックナーのように、遠近法的に「接近」するのではない。列車が近づくように、何かが同じ平面上でだんだん大きくなるというのとはちょっと違う。むしろ電撃的な出現といった感がある。この違いがブルックナーのバスのDと『第9』のAの差異なのである。

というのは、Aはニ短調のドミナントであり、主和音への解決へ向かう志向性とエネルギーに満ちた音だからである。主音Dを最初から出している書法とは根本的に異ならざるをえない。つまり『第9』冒頭の和声的デザインは大きくドミナント→トニックにあったということであり、だからこそ開始からバスにAを置いたのである。

しかしベートーヴェンは根音と第5音Eだけで、和音を確定させる第3音を置かなかった。それがあの素晴らしい神秘的な響きの開始をもたらしたのである。ところがドミナントであるということは長三和音で「なければならない」。なぜなら第3音Cisが導音として機能するからである。ここで矛盾が生じる。第3音を欠いた「響き」と、ドミナントとしての「機能」は決して相容れない。ベートーヴェンの底知れない天才がまさにここで閃く。

図は自然倍音列である。基音を鳴らすと、その周波数の整数比の倍音が波紋のように広がる。図では、基音Aを1として、上声に重なる倍音を第8倍音まで記した。そこで注目である。第5倍音は「Cis」となる。すると、倍音を含めると、基音上でA(Cis)Eの長三和音が成立しているのである。

当然、倍音Cisはスコア上に書かれていない。だから空5度の響きである。しかし音響物理的に倍音は微少に響いている。だから長三和音=ドミナントしての機能を潜在的に蔵している。素晴らしいアイディアではないか。普通は知覚されない音を、耳の聞こえないベートーヴェンは「聴いていた」のである。

ベートーヴェンは和音の響きと機能をコロンブスの卵的な合理性で両立させた。こうして主題への解決に向けて音楽は突き進むのである(次のワルターの演奏では小節をはさんだ三十二分音符と四分音符の処理に注目)。

しかし、ベートーヴェンは主題までずっとドミナントA(Cis)Eで通さなかった。普通の作曲家の常套的な書き方はしなかったのである。主題の直前にEは消え、そしてファゴットと第3・第4ホルンでDが出る(譜例 赤)。こういうアイディアが本当にすごいと思う。解決を先どりする目眩がするようなニ短調への突入の演出だろうか。この書法に匹敵するのは『運命』の第3楽章から第4楽章へのあのブリッジだろう。