誰が世界を救うか―シャマラン監督『ノック 終末の訪問者』
「途方もない映画だ」。
シャマラン監督の映画はだいたい観てきたと思うが、最新作『ノック 終末の訪問者 Knock At The Cabin』(2023年)にはそう感じざるをえなかった。オカルトとホラーがない交ぜになったスリラー。演劇的に練られたプロットもなく、あれよあれよという間に話は展開する。しかも「全人類の救済」という究極のテーマ。「途方もない……」。
そんな衝撃と戸惑いを多くの人が共有したのだろう。ネット上でもいろんな解説・解釈が溢れているようだ。ざっと目をとおしたけど、満足のいくものはなかった。
じゃあ書くしかないか。
仕掛けの数々
もともと話としては単純である。だからといえばいいか、いろんな仕掛けがちりばめられている。
たとえば物語の導入のところで少女が採集するバッタ。これは旧約聖書の『出エジプト記』におけるバッタの大群の襲来を暗示しているといわれたりする。いわゆる「十の災い」の第8番目にあたる(第10章1-20節)。イスラエルの民を救出するために神が起こした奇跡である。
また森で住む三人は東洋人の顔をした娘(ウェン)と、「二人の父親」(エリックとアンドリュー)という奇妙なとり合わせである。すぐにわかることだが、男二人はゲイで、娘は中国の病院から引きとられた。ここからLGBTの問題へ突き進む論者もいる。
最終的にはゲイの関係は崩れることから、性の多様性に対して差別的だと。
だが訪問者のうちのひとりは「同性愛に偏見はない」「ここに来てはじめて同性カップルだということを知った」ともいっている。もうひとりは「(事実を知って)驚いたが」ともいう*。
*三人のうちの二人をゲイにした理由は純粋に筋書き上の計算があったように思われる。というのも、映画のテーマは犠牲となるべき死の決断だが、もし三人が男、女、子供なら、決断が迫られるのは必然的に男になるだろう。女性への差別がいわれるが、事故や災害などのさい、救助されるのはまず子供、女性、それにお年寄りと相場が決まっている。男には逆差別的なバイアスがはたらいてもいる。だから決断を迫られるにはフラットな関係の男と男が適切だったのだろう。
訪問者の四人は『黙示録(アポカリプス)』の四騎士と関連づけられもする。確かにヨハネが見たという壮大でおどろおどろしくも幻想的な終末の光景なしには『ノック』は想定できなかっただろう。だから映画の中でも関連に触れられている。
世の終わりと人類の滅亡は子羊=キリストが七つの封印を次々に解くことによって進行していくが、最初の四段階で現れるのが四騎士である。『ノック』の訪問者が見たというヴィジョンによると、終末は地震と津波から始まり、ウィルスによる疫病の蔓延、「空が落ちる」飛行機の墜落、それに落雷へと進む。これは『黙示録』の記述と似てもいる。
登場人物が7人、訪問者のノックが7回、ウェンが7歳等々ということで、『黙示録』に頻出する7という数字にこだわる論者もいる。
映画はほとんど密室で進行し、外の異変に遭遇するのはあくまでもTVによってである。これはSNSが発達した現代の縮図だなどといわれたりもする。
もとになったポール・G・トレンブレイの小説 “The Cabin at the End of the World” と映画の比較も有効な議論だろう。しかし問題はそれが作品解釈に行き着いたかどうかである。
ちなみに原作では作者は二つの結末を想定していたようだが、シャマラン監督の映画では小説で採用されなかった方に近づいたようだ。
いずれにしても、こうした「解説」で作者がいわんとしたことが説明できたのか。聖書などへ関連づけられるものは、あくまでも物語を成立させている素材である。それらの出所を明らかにするだけで、その意味を問わないなら、どうなのか。あるいは技術的側面に終始したり、原作との比較に拘泥し、その意図を問わないなら、あくまでも映画の外にとどまるだけとなる。
脇道がいっぱいある。だが本道を見失ってはならない。
決断した者たち
三人が平和に暮らしていた山小屋に、ある日突然、四人の訪問者が現れる。確かに『ノック』は『黙示録』に着想とモティーフを得ているといえるだろう。しかしそれ以上でもそれ以下でもない。なぜなら『黙示録』では四騎士は世の終わりを遂行するのに対し、『ノック』では阻止する使者の役割を担うからである。
無関係の四人はまったく同じヴィジョンを共有し、導かれるように山小屋にやってきたのだった。彼らの使命は、選択された三人からみずからすすんで犠牲となる者を選び出すことにある。そのひとつの命が70億人の全人類を救うことになる。
「自己犠牲と救済」という使い古されたキリスト教的テーマだが、ちょっとしたひねりが加えられる。
「家族の中からすすんで犠牲になる者を選ぶ。つらい決断で選んだ者を殺さなければならない。もし選べなかったり、犠牲が行われなければ、世界は終わる。自殺は許されない」。レナードの言葉である。
椅子にくくりつけられエリックとアンドリュー、それにウェンを前に、四人は自己紹介を始める。
エイドリアンはコックだが、『黙示録』で飢餓をもたらす黒い馬にまたがる第3の騎士を象徴するという。「食べてもらうって、料理以上の何かがある」という言葉が印象的である。つまり料理は人の胃袋を満たす以上の行為である、というのである。
サブリナは看護師である。死をもたらす青い馬の第4の騎士にあたるという。
レナードは小学校の教師を務めていた。四人のリーダー格で、勝利を導く白い馬の第1の騎士だという。
レイモンドはガス会社に勤務していた。四人の中で一番短気で、攻撃的でもあり、戦争を司る赤い馬の第2騎士になぞらえられる。
彼らは自己紹介の後、三人にみずからを犠牲に捧げるかと問い、「ノー」という返事とともに、ひとりずつ死んでいく*。
*レイモンド、エイドリアン、サブリナ、そして最後にレナードという順に進むのだが、少し腑に落ちない点が気になる。「自殺は許されない」というレナードの言葉とはうらはらに、彼だけ自殺するのである。
エリック、アンドリュー、ウェンの三人に世の終わりを告げ知らせ、終末のヴィジョンを共有するために彼らはやって来た。そしてみずからの死をとおして犠牲となる選択を提示する。終末を阻止するためである。
つまり彼らもまた犠牲となるべき死を決断した者たちだったということになる。
決断を促すもの―他者の存在
『ノック』のポイントは三人のうち誰が決断するかになる。結論からいうと、訪問者の「侵入」のさい、頭を負傷したエリックが犠牲となる選択を受け容れることになる。行動的で合理的なアンドリューではなく、内気で信じやすいエリックである。しかし決断へと促したのは彼の性格ではない。
決め手となったのは、ウェンとアンドリューの将来の姿のヴィジョンを見たことだった。彼には成長したウェンとアンドリューの幸福な未来が目の前にはっきりと映し出された。自分が命を捧げれば、このヴィジョンは現実となる。しかし、もしそうしなければ……。
「希望のすべて」である娘の未来がエリックに決断を促したのである。このことはあの四人と完全に一致する。
というのも、エイドリアンは料理に「料理以上の何か」を見たコックだった。これは「人はパンのみに生きるものにあらず」というキリストの言葉を想い起こさせる。また彼女にはチャーリーという息子がおり、終末における彼の悲劇的なヴィジョンを見てしまった。エイドリアンは息子のために、みずからが犠牲となることを決意した。
サブリナはもともと人を救うことに従事していた。レナードは将来を担う子供たちのためにここに来た。レイモンドはかつて「臭い飯」を食ったこともある粗暴な男だった。偶然だが、アンドリューに暴力を振るったこともあった。しかし今はガス会社に勤めている。ガス事故で人の命が失われること防ぐためだ。
自分を超えた行為へと人を促すものがあるとすれば、それは、自分ではなく、他者への思いが溢れた結果だった。
日常への帰還
『ノック』のテーマは「決断」だといわれる。だがいっそう重要なのは、決断そのものより、何を決断するかである。ここで問われているのは明らかに「犠牲 sacrifice」である。
『サクリファイス』といえばタルコフスキー作品にもあった(1984年)。だがあの神秘的で宗教的なたたずまいは『ノック』にはない。確かに『ノック』のどぎつくもストレートな表現は好みが分かれるところではある。だがその結果として、宗教的臭さも教訓じみたものもないのは好感がもてる。リアルな描写に圧倒されてしまうのである。
しかしその裏にメッセージが隠されているのは間違いない。それを読み解くための重要な場面がある。
最後のシーンで、アンドリューとウェンは世界がもとに戻ったことを目のあたりにする。車中の二人は茫然自失。しかしエンジンをかけると、突然、ラジオの大音量が鳴り響く。訪問者がノックする前の楽しかった三人の生活のBGMだった軽快なロックンロールである(KC・アンド・ザ・サンシャイン・バンドの ‘Boogie Shoes’)。強烈なフラッシュ・バックに襲われる。
あの災難は何だったんだ……。ウェンはまだ放心状態のアンドリューの目をのぞき込んで、ラジオを消す。沈黙。しかし気をとり直したように、アンドリューがおもむろにラジオををつける。再び、騒がしい音楽が帰ってくる。まるで現実が戻るかのように。こうして、何事もなかったかのように、二人を乗せた車は動き出す。
日常への帰還か。だが生か死か、存続か終末かという極限を激しく揺れ動いた映画の結末にしては、あまりにもあっけない。
選ばれるのは誰か
人類を救済するための自己犠牲とは、明らかにイエス・キリストである。しかし『ノック』で選ばれたのは「神の子」などではない。森で平和に暮らす三人のうちのひとりだった。またどこにでもいるコックであり、看護師であり、教師であり、会社員だった。
救世主と祭り上げられる特別な存在ではなかった。日常の生活者に、突然、悪夢が襲うのである。何の予告もなく、命を差し出せというのである。
エリックはいう。「われわれは何も悪いことはしていない」。こんな目に遭わなきゃならないような特別なことはしていない、というわけだ。しかし特別だから選ばれたわけではない。
あくまでも無作為なのである。ということは、世界を救う使命を担わされることは、誰にでも起こりうる。すべての人が妥当し、すべての人に可能性がある。
映画のこの設定が意味するのは、選ばれるのは、ひょっとしたら「あなたかもしれない」ということにほかならない。
しかし日常の生活者が該当者であるという設定と、ひとりの犠牲が全世界を終末から救済するという設定にはかけ離れたものがある。この落差からドラマが生まれるわけだが、それを解消することで、普遍的なテーマが見えてくるかもしれない。
犠牲の日常性と普遍性
『サクリファイス』の作者タルコフスキーは『ノスタルジア』についてのインタヴューでこう語っている。
「人と人が寸断されたこの世界で、いかにして理解し合えるのか? 互いに譲り合うことなしには不可能でしょう。みずからを捧げ、犠牲とすることのできない人間には、もはや何も頼るべきものがないのです」。
映画『サクリファイス』で描かれたのも、最愛のものを犠牲として差し出すことだった。しかし「みずからを捧げ、犠牲とすること」をもっと日常に即した等身大に置き換えるとどうなるか。
たとえば電車で、必要だと思われる人に席を譲ること。これはどうか。ある人から肉体の負担を軽減し、その分を自分で引き受けるのである。命と引き換えにするというほどではないが、立派な犠牲ではないか。
つまり犠牲の可能性は日常のさまざまなレヴェルで無限に存在する。ただそうしたちょっとした気配りを描くだけではドラマにはなりにくい。だから大きくフォーカスして、壮大な物語に仕立て上げるのである。しかし日常生活に潜む犠牲を見逃してはならない。
犠牲とは、すなわち「自分ファースト」を超えることである。他者を多少なりとも優先する余地、余裕を自分の中にもつことである。ちなみに『ノック』の決意した登場人物たちも、レヴェルは違うとしても、自分を超えていたのである。
犠牲は精神世界に属する営みである。なぜなら「自分第一」的なものは自己を形成している世界を最優先とし、周囲との軋轢であらわになるが、その多くは肉体的・物質的なレヴェルだからである。席を譲ることで引き受けたのも肉体的な負担だった。しかし自分の利益を追求するだけでなく、他者に譲ることは、どんなに小さいとしても、精神的なのである。
だから、物質世界が圧倒的に支配する現代社会で、人間が精神的でありうるのは、まず犠牲においてであろう。ただ何度も繰り返すが、ここでいうのは決して自分の命や最愛のものを差し出すといったものものしい行為を意味しない。それを「自己の死」といっても、あくまでも比喩的表現なのである。
「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉・知恵が思い浮かぶ。他人に情けをかけるのは、その人ではなく、結局、自分に還ってくるからだ。つまり自分の利益のためにするのだ、というのではないだろう。たとえ意識していなくても、自分を構成するもののひとつに他者が存在するる。その他者に情けをかけることは、すなわち自分を生かすことでもある。
つまりそこに他者と自己がともに生きる共存の道があるということだろう。
「自分ファースト」が氾濫する昨今の世界である。小さな犠牲はどんなに小さくても、それが大きなうねりとなって世界に広がることで、過剰な自己主張で麻痺している民主主義を救うだろう。さらには文字どおり世界は救済されるだろう。
『ノック』が描いた壮大なヴィジョンは日常に収斂し、そこから再び世界へ広がっていくかのようだ。
ただし世界を救うためと称する死が正当化されるのには疑問が残る。終末を終わらせるために最愛のパートナーを撃ち殺したアンドリューに、エリックが見たような幸福な未来は果たして来るのだろうか。
【付記】ウェンがバッタを採取する最初の場面で、レナードが寄り添う。彼も、結構、捕獲の名人だった。二人の間で「質問ごっこ」が始まる。レナード「好きな映画は?」。ウェン「『魔女の宅急便』」。これはシャラマン監督のジブリ映画へのリスペクトと見た。あるいは、深読みすれば、他者に役立つことで自己実現が可能となり、世界の調和が実現するというというのが『魔女の宅急便』のテーマだとすれば、『ノック』はそのオマージュではなかったかという気さえした、。