何が何でもオリジナル?―モーツァルト新全集を見て思うこと
大学時代からの友人の影響で、早くから、クラシックを聴きながら楽譜を見る習慣がついた。大好きなモーツァルトなど、安い輸入版をなけなしの金で買い漁ったものだ。いわゆる旧全集版である。例えば弦楽五重奏曲ハ長調K.515ならこんな出だしである(譜例 Leipzig, Breitkopf & Härtel, 1883.)。そのままあげてみる。

やがて新全集が出ていることを知った。最新の研究の成果に基づく権威ある版のはず。ある時、廉価で全集が出るという。もう就職していたので、飛びついた。やった。無尽蔵の宝庫だ。早速、弦楽五重奏ハ長調の頁でも開いてみるか(Kassel, Bärenreiter-Verlag, 1967.)。あれ、なんだこれ?

旧全集では全部記されていた八分音符が全音符に斜線を付けて略記されているではないか。ははあんときた。それで自筆譜のファクシミリの写真を見てみた。大正解。校訂者は自筆譜をそのまま底本としたのだろう。同じ傾向はほかの曲でも同じだから、新全集の基本方針だったのだろう。自筆譜どおり連打音は省略して記譜するのである*。
*ちなみに1825年頃出版されたアンドレ版も略記号を使っている。ただし自筆譜と完全に同じではない(2小節目は二分音符で略記されている)。アンドレ版が偶然の産物だとしても、新全集はそうではない。なぜなら、新全集は旧全集を踏まえ、できるだけオリジナルに近づけるように意識的な軌道修正をしているのは明白だからである。
ここで一応、楽譜の出だしの部分を聴いて、確認しておこう。クイケン四重奏団他の演奏で。
楽譜は音楽の視覚化
そこで啓蒙思想家のジャン・ジャック・ルソー(1712-78)の話が思い出された。あれは『回想録』での逸話だったろうか、以下は記憶に基づいて書く。
ルソーは作曲もし、音楽家でもあったのだが、ある時、数字による記譜法を思いついた。音符を数字に置き換えるのだろうか、実体はよくわからない。ただ楽譜ほど難しくもなく、一般での利用価値が高そうだった。
早速、ルソーは音楽家・理論家として有名なラモ―(1683-1764)を訪れ、ご自慢の発明を見てもらった。ラモーは子細に検討し、ルソーは満足げに彼の姿を眺めていた。そして大先生はついに口を開いた。なるほどよくできた記譜法で、利便性は高そうだ。「だがひとつ問題がある」とラモーはいう。「その問題点こそ、複雑かもしれないが、楽譜がもつ特筆すべき利点なのだ」とも。さらに彼は言葉を続ける。
「楽譜は音楽が見えるのだ」。
数字式記譜法ではそうはいかない。それが決定的な違いである。音の高さを数字で表すことができるとしても、高さは数字に変換されているのである。しかし楽譜では音楽がそのまま見える。
音の長短、休符、高低、動き、それらがちりばめられたクスチュアの変幻自在な「絵」の移り変わりから、音楽そのものが一目瞭然である。これが楽譜というものなのであり、楽譜の素晴らしさなのである。
ルソーは「そうかー」といくぶん落胆しながらも、「さすが大家だ」とうなったという。
どっちが見えるか
そこで弦楽五重奏曲ハ長調の冒頭に戻ってみよう。音楽のありようがよく見えるのはどっちか。旧全集のスコアからは、絶え間ない八分音符の連打がえもいわれね颯爽感を呼び起こさないだろうか。それはあのディヴェルティメントニ長調K.137の疾走感を思い浮かべさせもする。あるいはハイドンの『鳥』四重奏曲やベートーヴェンの『ワルトシュタイン・ソナタ』へと連想が繋がる。
躍動するリズムが眼から身体に伝わるようだ。
しかし新全集ではどうか。白い全音符が並んだだけで、黒い斜線でそれを八分音符8個分だと示す。まあブルックナーならまだしも、モーツァルトのアレグロの鼓動が見えるだろうか。
決定的なのはここである。長い音符に何重かの黒い斜線が入ると、そこは「こういう意味だ」「そこはこう弾け」ということになる。たとえば二分音符に二重の斜め線なら十六分音符8つである。「こう書いたら」「こういう意味」。つまり見たものと実際の間に「思考」、ある「約束事」、なんといってもいいが、少なくとも変換が介在することである。
だが簡略化せずに音符をそのまま連ねて書けば、何ら介在しようがない。見たまま、そのまんまだからである。そこに音楽の空気感まで漂う。
「オリジナル」は絶対じゃない
自筆譜でもわかるが、冒頭の4つの八分音符はモーツァルトはちゃんと書いた。その後、略して書いたわけだ。それをそのまま新全集では起こしている。
確かに作曲という作業においては細かい音符を全部書くことは大変な労力であろうし、煩雑にもなりかねない。つまり音を省略するのは便宜上だったかもしれない。しかし楽譜を「見る」「読む」立場からはどうか。立場が変われば、便宜上からとはいえ記号化されることによって、そのままの音楽は見えにくくなってしまいかねない。
そういうと、校訂者はあの金言をもち出すだろう。「オリジナルだから」。
つまり「音楽」ではなく「オリジナル性」が大切だということになる。わたし自身は天邪鬼だから?まず「音楽」をとる。だから旧全集の方向だと助かる。研究のためのスコアならなおさらである。
こうした省略した記譜法について、演奏する場合はどうなのだろうか。当然、音楽のジャンルによっても違うだろう。ただモーツァルトに戻るなら、天才だから盲目的にオリジナル主義に徹するというのはどうなのか。「思考停止」と「尊重する」はまるで異なると思うのだが。
マーラーだっていっている。「後世はわたしが書いたスコアを修正・校正し続ける義務がある」と。