どんな暗さ?―モーツァルト『40番』4

モーツァルトの音楽の「構造」が示す悲劇性は、たとえばマーラーの『悲劇的』より深刻である。マーラー交響曲第6番のフィナーレは否定で壮大に締めくくられるが、やや芝居がかったもの、外面的なものを禁じえない。第1楽章では長調の第2主題(「アルマの主題」)が凱旋するかのように再現していたし、変ホ長調の第2楽章のたたたずまいも交響曲を通底する悲劇性から遊離しているようでもある。だが『40番』は誇張や効果、強要されたものからは無限に遠く、しかも、徹頭徹尾、悲劇的である。

モーツァルトでは表現が完全に音楽化されているからである。悲劇を描写・演出するためにハンマーをもち出すまでもない。とはいえ、構造という純粋に音楽的なものに完結・昇華されているというまさにその理由で、表現そのものに気づかないこともあるだろう。だから「モーツァルトの音楽はさらさらと水が流れるだけのようで、つまらない」といわれたりもする。しかし、実は、表現は構造の中にある。構造へと透明に結晶しているがゆえに、時には見えないのである。モーツァルトはそうした構造の「型」をすでに8歳で発見したようだ。短調の第2主題の処理はひとつの型として彼の生涯を貫く。

一般に、音楽分析では形式の区分をするだけで、構造の「意味」を考えない。意味の解読はむしろ音楽の表層に向けられており、そこから音楽的表現を見ようとするようだ。『40番』は特徴的な旋律美に満ちている。

旋律は同度の反復から始まり、蓄積されたエネルギーは「情熱的な」6度の跳躍によって発散される。旋律線はそこからうなだれるように下降線を辿り、「諦め」に至るかのようである。音型や旋律線の一般的な印象はある程度いえるだろう(たとえば「情熱的な」6度については、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲冒頭を思い浮かべればいい)。またいっそう明確な表現と結びつけられそうな伝統的な音楽的語彙もある。

冒頭の短2度の2音Es -Dは「ため息」の音型と呼ばれ、「悲嘆」の表現とされる。旋律の後半で出るFis-Esの増2度は「苦痛」「痛み」である(譜例 赤)。増音程は西洋音楽では、原則、禁じられた音程であり、「異物」として、一瞬、まるで傷口が開くかのような印象をもたらす。モーツァルトはそれを下降線にそっと忍ばせ、さりげなくも哀切なものをにじませる。短調作品でのモーツァルトのいつもの手法でもある。

実際『40番』はため息に満ちている。次の頁は第2主題の後、木管と弦に現れる。クラリネットとファゴットがため息で呼びかけ合うのである。弦では第1ヴァイオリンとヴィオラ+バスが呼応する。ただし音型は引き延ばされ、いっそう深い嘆息となる。それにしても、美しいテクスチュアだ。

モーツァルトはこうしたバロック的語彙を知悉して使っていたのはいうまでもない。しかし、たとえば、ため息の音型は作曲家が使用しやすい「ため息的なもの」の常套句にすぎない。音型自体は「それらしい」というレヴェルの音楽表現にとどまる。ため息の音型はため息そのもの、悲嘆そのものではない。それに伝統的な音型での分析は個別の表現を一般化へと解消することにもなりかねない。いわゆるフィグーレンレーレ(音型論)で音楽表現をすべて理解できると豪語するには、ためらいと気恥ずかしさがある。

やはり音楽を一刀両断で解明する方法はない。さまざま要素の総合としての作品の個性を浮かび上がらせるしかないのである。そのために、これまで『40番』を特徴づけるさまざまな要素を浮かび上がらせてきた。「短調の領域の広さ」「第2主題を演出する悲劇的な構造」そして今回の「音型が示唆する表現」である。さらに重要な要素がいくつかある。

内向的な音響

再び相対化の方法をとることにしよう。すでに見たハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲の比較である。三人の短調作品の楽器編成は次のようになる。

注釈が必要である。モーツァルトのCl.(○)は、すでに述べたように、『40番』にはクラリネットある・なしの二種類の稿があることを示す。ベートーヴェンのTb.(○)は第4楽章だけにトロンボーンが使用されていることを表す。トロンボーンは教会の楽器であるから、ベートーヴェンの用法は異例といえる。フルートが例外的に1本で、クラリネットを欠いているが、ハイドンの第95番が交響曲として普通の楽器編成といえよう。注目すべきはトランペットとティンパニである。

交響曲、シンフォニーはもとは序曲であり、一種のファンファーレ音楽である。トランペットとティンパニはこの音楽にまことにふさわしく、古典派でジャンルが確立されても、シンフォニックな楽器として交響曲で重要な位置を占めた。ベートーヴェンの9曲はすべてトランペットとティンパニを備えている。これは交響曲がパブリックな音楽であるというジャンルの概念に基づいているからにほかならない。交響曲は外に開かれた音楽なのである。逆にいえば、『40番』はこれの楽器を欠くことによって、ジャンルの概念に背くような内向きな性格となるのである。

オーケストラの楽器の編成が曲の性格を示唆している。

よく『40番』の「室内楽的」たたずまいがいわれるが、「室内楽的である」とは音楽の内容が「内省的である」ということにほかならない。大声で叫ぶような音楽ではない。ファンファーレ音楽だった交響曲を弱音の旋律で始めたのもそのひとつの証であり、まさにジャンルから逸脱しているようだ。敢えていえば、内省的な交響曲という一種の革命というべきか。

クラシカルなオーケストラではトランペットは突出することなく、ティンパニと協働し、トウッティの威力を増し、打楽器的なアタックを加える。ところが『40番』にはそういった威圧はなく、ひたひたと音楽が流れる。音圧の壁をつくることのない流麗な音の織りなしをシューマンは「ギリシャ風にたゆとうがごとき優美さ」と形容した。そうした女神のような姿は、先に聴いたハイドン第95番とベートーヴェン『運命』の雄々しくも力強い音響に比較すると、くっきりと浮かび上がる。

3曲の比較で、『運命』がもっとも暗いという意見が大勢を占めたことが想い起こされる。その理由は「暗さ」の感じ方では「暗さの度合い」だけでなく「外に向かって訴えかける力」が大きくものをいうからだろう。モーツァルトはあくまでも内向きだが、ベートーヴェンの音楽は聴き手の心に迫り、こじ開け、主張する。そこで効果的なのがトランペットとティンパニなのである。小声では何をいっているかわからない。声高に発信することで、聴き手に大きな印象を刻みつけることができるのである。

つまりモーツァルトの暗さは内向きであり、「内にこもる暗さ」なのである。しかし、外に発散できる苦悩と露出できない苦悩があるとしたら、どっちが深いだろうか。