やっぱり、悲しみは疾走する―モーツァルト『40番』6

音楽の性格を規定する重要な要素として、意外なのが、テンポかもしれない。性格と速度に関係があるのか? 大ありである。たとえばグラーヴェ、ラルゴ、アダージョという「遅く」で一緒くたにされる音楽用語は、もとはイタリア語でそれぞれ「重々しく」「幅広く」「落ちついた」といった意味合いをもっている。楽曲の具体的なテンポはそうしたニュアンスを想定してはじめて決定される。音楽の性格がテンポを決定するのであって、その逆ではない。そして快速調を表すアレグロの意味は「快活な」「陽気な」である。『40番』第1楽章はモルト・アレグロだから「きわめて快活に」となる。

ただし、イタリア語の原意が問題なのだという以前に、音楽とテンポの関係をより深く掘り下げる必要があるだろう。

単純に二極化することはできないとしても、音楽を二つの傾向に分けることは可能かもしれない。たとえばアダージョ・タイプとアレグロ・タイプといった分類である。遅めの音楽と速めの音楽。モンゴルの伝統音楽では「オルティン・ドー(長い歌)」と「ボギノ・ドー(短い歌)」といういい方があるようだ。前者は、日本の追分のように、拍節構造がはっきりしない、ゆるやかな音楽、後者は拍子感が一定で、より軽快な音楽である。ということは、音楽を速度で分類するとしても、単にメトロノーム数値で示される速さだけでなく、拍子感の強さ・弱さも問題になる。つまり音楽が進行する感覚、テンポ感が大きくかかわっている。音楽行為の主体であるわれわれ人間にそれはどうかかわっているのだろう。

人間は一方で精神的、霊的な形而上的世界に属し、もう一方で物質的、肉体的な形而下的世界に住んでいる。そうした二重の相対するような要素の総合が人間だとしたら、そして音楽がそうした人間性の反映だとしたら、次のようにいえるかもしれない。

ゆったりとした拍子に捕らわれない音楽は人間の心的世界、そして快速で拍子の周期性が強い音楽は人間の肉体的世界に由来しているのではないか。前者の典型はたとえば詩吟、後者は踊りである。両者は峻別されるものではなく、それらの間にさまざまな様相が成り立つ。ちょうど人間そのもののように。

以前、たまたまこんなTV番組を観たことがある。音楽で幼稚園児の関心をどこまで持続させることができるか挑戦してみようという企画である。お笑い的な意図とは裏腹に、そこには「音楽とは何か」の重大なヒントがあるように思えた。結果は決定的だった。「遅い音楽で幼児の関心をつなぎ止めることはできない」という鉄則的な結論である。活発で、身体を動かすような音楽でしか彼らの関心は持続しない。ゆったりと音楽に耳を傾け、しみじみと味わうことは難しい。このことはアレグロ・タイプは身体的衝動へと向かう傾向が強く、アダージョ・タイプが心へ沈潜する傾向が強いことと無関係ではあるまい。幼稚園児の世界では身体的・物質的環境が圧倒的である。人生の入り口に立ち、まだ心的体験の少ない人間にとって、音楽に自己を投影したり、共感することは難しいに違いない。音楽が醸し出す心情の綾に浸るなど無理である。してみると、心的存在としての人間を形成するのは「体験」なのかもしれない。デカルト的心身二元論に立てば「わたしとは体験の記憶」なのか。

遅い、拍子感の乏しい音楽は心的領域へ沈潜し、速い、拍子感の支配力が強い音楽は身体を鼓舞する。モーツァルト『40番』第1楽章のモルト・アレグロが企図するのは、音楽を内面化することの阻止だったように見える。二拍子も身体的な運動性の象徴のようでもある。いずれにしても、心情的世界へ沈み込まないようない志向がはたらいているとみなすべきだろう。どんなに暗い意匠が凝らされていようと、音楽は「陽気」でなければならない。

駆り立てるリズム

さらに第1楽章で多用されているのは、いわゆる短短長格(アナペスト)のリズムである。いわゆる「ため息の音型」のリズムだが、「二つの短い・弱い音節」と「ひとつの長い・強い音節」からなる。この詩脚の特徴は次のように説明される。

その短さゆえに、および強調されたシラブルで終わることで強いリズムをもたらすという理由で、アナペストはきわめて動的な詩を生み出すことが可能である。そして内的な複雑さに富んだ長いセンテンスを可能とする。

英語版 wikipwsia 'Anapaest’

特徴は駆り立てるような運動性にある。詩の場合はシラブルの相対的な短い・長いが前提となる。そこでエネルギーの流れのニュアンスが生起する。

しかし音楽の場合は拍子というエネルギー循環の枠があり、その中でリズムが置かれ、位置づけられる。『40番』ではこうなる。

短短長の短短のリズムは小節線の前に出る。いわゆるアウフタクトであり、次の小節の頭へ流れ込む。まるで吸いよせられるかのように、細かいリズムでエネルギーがしたたり落ち、長いリズムでしっかり受け止められるのである。拍節構造にぴったり合ったリズムの配置である。アナペストでいわれる転げ落ちるような前進衝動、うねり、疾走感を完全に音楽化している。たとえ音型が同じでも、下のように拍子の枠に組み入れたら、効果はまるで違う。動きの重心となる強拍で短いリズムによってエネルギーが分散され、推進力は萎えてしまうのである。何ともぎきしゃくした動きが生じる。もしこう書かれていたら、まるで違う音楽となる。モルト・アレグロではありえない。

『40番』でモーツァルトはアナペストのリズムを音楽的に強化し、第1楽章の至るところにちりばめた。結果として、曲を支配する前進衝動は極度に高められる。何か脅迫的なものに憑かれたような焦燥感さえ漂う。

これまで描いてきた『40番』の別の性格を規定する要素は「動性」にある。指示された急速なテンポ、そして拍子にぴったり合ったリズム法は駆り立てるテンポ感を生むように仕掛けられている。結果として、音楽はうねるような運動性を呼び起こし、精神世界への淀み・沈殿は一掃される。こうして『40番』が一方でもっていた全否定的な響きに対して、安易な肯定に寄りかかるのではなく、しかも全体として音楽が多義化されるのである。

それにしても、やっぱり、モーツァルトの悲しみは疾走する。