精神は現実を超えて―マーラー 交響曲第1番フィナーレ3

第1交響曲の最後の舞台で繰り広げられるのは、わたしと現実の相克だった。マーラーはボヘミア生まれのユダヤ人で、みずからを永遠の故郷喪失者であると自覚していた。豊かとはいえない家庭で第2子として生まれた。仲のよくない夫婦には14人の子供が生まれ、7人が早世した。死と隣り合わせの生活だっただろう。それがマーラーの現実だったのである。

フィナーレの冒頭では現実の過酷さが描かれ、やがて内面に浸り、夢が広がるようだった。その後の展開を図示してみた。2で紹介した2つのパラメータ「調性」と「テンポ」が楽曲を読み解く鍵となる。

まず断っておかなければならないのは、実際は、図のように截然とパラメータごとに部分が分けられるものではないということである。テンポに関していえば、「徐々に遅く」「加速して」といった繋ぎの部分も多々ある。調性では長調と短調がはっきりしない、あるいは入り乱れる部分も少なくない。ちなみに3の部分はまさに長・短と激しく揺れ動く部分で、図ではグレー・ゾーンとしておいた。このように、細部を捨象した図ではあるが、むしろそれだけに各部分の構成がよくわかるかもしれない。

1の部分は暗い短調で、時計の時間が支配する現実世界だった。2つのパラメータが「黒」となり、現実の暗黒が示唆される。そして次の2は、明るい長調で、わたしだけの時間が自由に羽ばたく。これを象徴的に「わたしの夢」といっておこうか。図では2つのパラメータが「白」で一致する。

問題はその後である。3の部分はテンポは急速で、長調と短調が闘争的に展開する。比喩的にいえば、現実(速いテンポ)における、否定的なもの(短調)と肯定的なもの(長調)の格闘か。

しかし闘争は収まり、再びわたしの時間が訪れる。4の部分である。

音楽では、普通、どこかのパートでリズムの刻みを入れる。しかしここではそういう普通でない領域へ踏み込んだようだ。そこでは時間が止まっている。はるかに聞こえてくるのはファンファーレであり(幼い頃、オーストリア軍の兵舎から聞こえていたラッパの響き!)、森のざわめきであり、カッコウの鳴き声。普通でない領域とは、わたしの記憶の世界であり、この交響曲の冒頭の目覚めの部分が回想されるのである。遅い長調部分を「わたしの世界」と呼んだ意味が確認される。

しかしわたしの回想、わたしの夢は長くは続かない。現実の凶暴なうなり声が響く。

こうしてまた現実が牙をむく。5の部分、2つのパラメーターはともに「黒」である。しかしここから壮大な終盤へ向かう。ついに偉大なる勝利が訪れるのである。音楽的にいえば、勝利は、伝統的には、主調の主和音(ニ長調のⅠ)への解決となるだろう。しかしここではバスはAであり、ドミナントの確立が決定的となる。主調へ解決するはずのドミナントはすでに行き着く勝利を確信させる。そのドミナントを引き出す和音も、ロマン派の常套手段であるドッペルドミナントを使わなかった。これは研究するに値する。スコアを丸ごと引用しよう。

さあ、ついに勝利が勝ちとられた。そこであの図に目を転じてみよう。明るい長調「白」が速い現実のテンポ「黒」となっている。ここだけ白と黒がねじれる? これはどういうことか? しかしこれこそが結論なのだろう。

マーラーにとっての交響曲第1番の結論とは、現実の過酷な世界(速いテンポ)がわたしの世界(長調)とひとつになることだった。「わたしの夢の実現」こそが勝利だったのである。