愛が世界を動かす―60年代のボブ・ディラン8(完)

1969年2月、60年代の最後のアルバム『ナッシュヴィル・スカイライン』が発表された。ジャケットには時代と闘う戦士はいなかった。未来を切り拓く預言者も、言葉を自在に操り、煙に巻く魔術師もいなかった。どこにでもいる人のいいおじさんのような笑顔があった。

レコードに針を落として、二度びっくりした。ディランのトレードマークのあのしわがれ声はなく、まるでベルカントのテノールのような歌声があった。「タバコをやめたから」という本人の弁もあった。誰か信じた者がいるだろうか。

音楽がまた驚きだった。カントリー・アンド・ウエスタン調が全開で、カントリー界の大御所ジョニー・キャッシュまでが呼び出されもする。明らかに、前作『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の最後2曲の大規模な敷衍であるが、「入り江にそって」に残っていたブルース色は完全に消えた。屈託のないサウンドが全編に広がる。後にも先にもボブ・ディランがこんなカントリー・アルバムを作ったことはなかった。

哲学的思索をめぐらす内容、複雑にして難解な詩、何とでもとれるいい回しなど、カントリーには不要である。『ナッシュヴィル・スカイライン』から言葉の幻惑は消え、多義性の霧は一気に晴れた。歌われるのは、ずばり「愛」である。

音楽もそれに対応している。第1曲のイギリス民謡と第2曲のインストルメンタルのギグの2曲を除く、新作8曲すべてに、サビがある。サビはポップスの常套句であり、音楽の「ポップ度」の指針ともなりうる。前作では全12曲中1曲、最後の「アイル・ビー・ユア・ベイビー・トゥナイト」だけが「サビ付き」だった。『ナッシュヴィル・スカイライン』への導火線をそこに見ることの正当性の証ともいえる。そしてこのアルバムがいかにポップかがよくわかる。

そう、歌われるのは「愛」である。第1曲「北国の少女」は第2アルバム『フリーホイーリン』からの再録であり、今度はジョニー・キャッシュとの絶妙なデュエット。二重唱というより、思いはひとつでありながら、ばらばらに歌っているようでもある。自由で、即興的でありながら、則を越えないどころか、微妙に絡み合う歌唱は圧倒的というしかない。例外的に、トラディショナル・ナンバーであるこの曲だけ、謎のような詩だが、愛の魔法を呼び起こすようでもある*。  

*詩の解釈については、本ブログ内「謎かけに託した思い―サイモンとガーファンクル「スカボロー・フェア/詠唱」参照

愛をめぐって

人気曲「レイ・レディ・レイ」はレコードではB面第1曲目だった。アルバム中、ハーモニー的にも形式的にも、もっとも凝った曲だろう。特に、下行するクリシェ・ラインを伴うA-G♯m-G-Bmというコード進行が、幻想的なサウンドを醸し出す。ありきたりではないこのサウンドは、愛というより「性愛」が歌われている曲の内容と無関係ではないだろう。「ぼくのベッドへおいで」という詩の直接性が音楽の夢幻的な間接性とうまくバランスをとっているのである。普通のコード進行でやるなら、詩を間接的にするだろう。

アルバムの明るさはすべての曲に及んでいる。失恋ソング、あるいは愛の疑惑?においても、である。「ワン・モア・ナイト」は「今夜ぼくを照らす月はない」と歌う。しかしひなびた二拍子のヴォードヴィル風サウンドに暗さはない。「嘘だといっておくれ」も同様。恋人を疑う嫉妬の狂気とは無縁である。代わりにあるのは、オルガンをフィーチャーしたかっこいい演奏とサウンドである。

他の曲では愛の幸福感が溢れる。最後の「今宵はきみと Tonight I’ll Be Staying Here With You」にコメントが必要だろうか。歌の主人公は「乗車券を窓から捨てろ」といい放つ。「今夜 はここできみと一緒だ 」というが、「今夜」だけではあるまい。何しろスーツケースも投げ出した。ついでにトラブルも捨てたという。旅人は安住の地を見つけたのである。

思えば第2アルバムの「ドント・シンク・トゥワイス・イッツ・オールライト」の主人公は「魂が欲しい」といわれて、応えられず、女を残し、旅に出たのだった。あの男が「くよくよするなよ」と自分にいい聞かせていたのは、くよくよしていたからである。しかし、今や、思い悩む必要なはい。もう旅はやめた。ここにとどまる。「今宵はきみと」は「くよくよするなよ」の主人公のその後の成り行きであるかのようだ。つに魂の故郷に辿り着いた。

世界の原理としての愛

アルバムで最重要な曲は「アイ・スリュー・イット・オール・アウェイ」かもしれない。「失って初めてわかる愛の大切さ」が歌われる。これも常套的な内容である。ディランの文脈でいえば「くよくよするな」の男が女のもとから旅立った時、心に沈殿していたものかもしれない。そしてサビが来る。

あるのはすべて愛 愛が世界を動かす
愛が 愛だけだ それは否定できない
あなたがどう考えようと
それなにしは何もできない 

これもカントリーでは陳腐ともいえるいい回しだろう。愛を讃える言葉は詩的に飾り立てられるのが普通である。だから「満足した男はありきたりの言葉で喋る。そして毎日がバレンタイン・デーであるかのように、言葉に磨きをかける」(ビルボード誌)といわれたりする。「何かが欠けているという思いを禁じえない。牧歌的で田園的なこの風景は、真実であるには、あまりにも出来すぎではないか」というBBCの評もある**。

**引用はすべて英語版 wikipedia “Nashville Skyline”

要するに『ナッシュヴィル・スカイライン』は「きれい事を並べ立て」「嘘っぽい」というのである。欠けている「何か」とは真実だろう。だとすると、以前の作品との関連で、2つの可能性がある。1)これまでのアルバムが「真実」であり『ナッシュヴィル・スカイライン』は「嘘」である。それとも、2)これまでも「嘘」、このアルバムも『嘘』、という可能性である。

もし2だとすると、社会の悪に立ち向かっていたヒーローも、ロックに転向した内面の探求者も、嘘つきだということになる。ボブ・ディランは一貫しており、われわれは彼の嘘に翻弄され続けていた。もし1だというなら、なぜ『ナッシュヴィル・スカイライン』以前・以後で変化したのか、理由を明らかにせねばならない。たとえばアルバムのセールスを上げるため、魂を売って、ポップにしたとか?

明らかに少し前の時期のサラとの結婚と、第一子の誕生がボブ・ディランに変化をもたらしたことは考えられる。だから満足して、軟弱になり果てたのか。それとも幸福な男を演じて見せたのか。だとしたら、嘘つきというより偽善者か。

第3の選択肢がある。3)これまでも「真実」、このアルバムも「真実」である。ディランはみずからの心に忠実な徒として一貫しており、その延長線上で『ナッシュヴィル・スカイライン』もとらえるべきである。なぜならこれまでの作品の真実性は疑いようがなく、彼が掘り進んできた坑道を方向転換することなどできないはずだからである。明らかに、カントリー・ミュージックへの接近はひとつの戦略だった。

真実=暗く、こ難しく、複雑で、時に悲劇的で、悲惨でさえあるという図式は誰が決めたのか。真実は、朝、太陽が昇るように、単純で、牧歌的で、幸福であるというのは嘘でなければならないのか。あまりにも陳腐だと決めつけることで、身の回りに転がっている真実にわれわれは気づかないだけではないのか。世界が奇跡で動いていることに目を向けないのではないか。しかし、その「気づき」を表現するにはカントリー・ミュージックという衣装を借りるしかなかった。素朴で、脳天気で、時にはバカっぽいかもしれない常套句の中にだって反面の真理がある。カントリーの中では「愛」は濫用されるが、「愛」はまた深奥な世界に通じてもいる。

それに、確かに、かつてのディランと繋がってもいる。第4アルバム『アナザー・サイド・オヴ・ボブ・ディラン』の第1曲は「オール・アイ・リアリー・ウォント」だった。社会の不正を糾弾する最初期の「怒りのディラン」が方向転換し、「自分が本当にやりたいこと」を歌った曲である。そこではあらゆる動詞が動員され、すべて否定され、ただ「友だちになりたい」といっていた。「~する」という動詞は対象を規定する。良くも悪くも決めつけるのであり、そうすることで対象化する。しかしそんなことはしたくない、という。

規定し、決めつけ、対象化するのではなく、友だちになりたい、きみとともにありたい、一体化したい。ボブ・ディランにとって、これが1964年に本当にやりたいことだった。同じことを1969年の『ナッシュヴィル・スカイライン』版でいうと「愛が世界を動かす」ということになる。なぜなら愛は対象化、区別を廃棄し、ともにある立場をとるからである。ここでいう愛とは世界の原理としての愛である。

カントリーの衣装をまとって、日常的に見えるかもしれないが、「それなしには何もできない」愛なのである。

かつてアイデンティティの危機の中で「本当にやりたいこと」を探し出した時、それはまだ感情に根ざしていない概念的なものにとどまっていたかもしれない。しかし『ナッシュヴィル・スカイライン』において、ディランは自分の核にあったものを「感じた」のである。概念は感情によって現実化された。ディランは一貫している。

『ナッシュヴィル・スカイライン』は60年代の嵐を通過した魂の求道者が行き着いたひとつの解答だった。

ただしそれはカントリーという形式でしか表現できなかった。だからこそ、ディランの旅は続く。そもそも愛の立場に置くということは、現実を対象化し、切り捨てるのではない。現実というカオスのただ中を「ともに生きる」ことを意味する。ディランの旅は現在進行形なのである。