ハーモニーが言葉に魔法をかける―スティーヴィー・ワンダー「心の愛」

いつも思うのだが、われわれは言葉をどのように受け止めているだろうか。たとえば「ありがとう」という言葉。

表面上は感謝の意を表すのだが、使い方でどうとでもなる。ほとんど儀礼上の挨拶にもなれば、満腔の感謝を込めた言葉ともなる。言葉に込めた思いの深さが、いい方で変わるだけではない。斜に構えた皮肉ないい方をすれば、実は「ありがたくない」表現ともとれよう。真逆な意味を込めることさえ可能なのである。役者ならみんなやっていることだ。

つまり言葉は本来の「意味」と、それがどのように使われたかのレヴェルでの「表現」がある。そしてわれわれが、普段、言葉の世界で生きているのは「表現」のレヴェルなのである。「ありがとう」といわれても、本当に「ありがたい」とい気持ちから湧き出てきたのか、ただの形式的な反応なのか、われわれは見ている。時には虚ろな響きや否定的な調子でいわれると、心の中に何かわだかまりがあるのか、さらには拒否の意図さえ隠されているのか、われわれは疑い出す。それが生活というものである。

言葉には意味世界はもちろんだが、それがそのように発せられたかが重要である。ここでいう「どのように」には話し方や表情、所作などさまざまな要素がある。しかし根幹をなすのは声の色である。われわれは電話のような貧弱な音からも、受話器の向こうの話し手の心を察することができる。心が弾んでいるのか、沈んでいるのか、声色でわかる。だからこそ、音楽が何かを表現するとしたら、「音色」が決定的な要素となるのである。

そして、音楽で「色」を決定するのに欠かせないのがハーモニーである。

何もない普通の日々

1984年のスティーヴィー・ワンダーのヒット曲「心の愛」にすぐれた例がある。原題は I just call to say I love you である。 1番、2番……と歌詞が変わるヴァースVは4つあり、そこに不変のリフレインRが循環する。V1V2RV3V4RR……という構造である。

ヴァースの歌詞は「ないない尽くし」である。新年を祝うわけでもないから、ハート型のキャンディーはない。春が来たわけでもないし、歌もうたわない。あるのはありきたりの普通の日(1番)。4月の雨もないし、花が咲くわけでもない。6月の結婚式もない。でもあの3つの言葉は真実だという(2番)。3ワーズとは I love you である。

続くヴァースではクリスマスやバレンタイン・デイ、それにハロウィーンなどの特別な機会が総動員されるが、すべて「ない」と歌われる。あるのは何の変哲もない日常なのである。

メロディはくどいほど同じパターンを反復する。驚くべきことに同一コードCがずっと続く。ベースも一定の動きを繰り返す。以上の6小節が今度は2度上で歌われる。コードはDm。ヴァース1が終わるとヴァース2に入り、ほとんど退屈の限界となる。明らかに「ありきたりの毎日」の音楽的表現である。

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普通の中の特別

そしてリフレインが来る。「ちょっと電話したんだ。アイ・ラヴ・ユーといいたくて」。コードは1小節ごとにチェンジし、音楽が動き出す。2行目は「ちょっと電話したんだ。どんなにきみを想っているかをいいたくて」。ここでぐっとくる。「想っている care」での必殺のAm(譜例 青)のカードが切られる。

ここは和声的には普通Cで、Amでも可能だが、後者を選んだのは決定的だった。試しにCで弾いてみると、違いは歴然とする。普通と特別の違いである。Amが特別にしたというのは「どんなにきみを想っているか」という言葉に魔法をかけたのである。

欧米では I Love You はごく親密な関係の中での決まり文句的フレーズかもしれない。少なくとも、愛という言葉は歌の中では星のようにきらめくし、「いい本にも悪い本にも」(ビートルズ「ザ・ワード」)溢れている。だから特別な機会に使うことで、特別な輝きを添えようというのだろうか。しかし本来 I Love You は日常に起きる「奇跡」なのであり、そもそも「特別」なのである。

むしろ心が愛を感じた時に伝えてはどうか。「心の愛」のメッセージはそこにあるのだろう。話したいと思ったまさにその時に、話せる道具が電話なのだから。ただ大切なのは、それが「心の底から from the bottom of my heart」でなければ、ということ。どんなイヴェントであろうと、特別な日であろうと、愛を飾ることはできない。むしろ普通の日でいい。真実な3ワーズであるならば。そして言葉に真実味をもたらすものがあるとしたら、それは声の色なのである。あのAmが醸し出すのは、心が疼くような「色」なのであり、言葉を「心の底」からの響きとするのである。

「心の愛」でのマイナー・コードは何を表現しているのか。メジャーは「明るい」「うれしい」、マイナーは「暗い」「悲しい」の単純な二元論ではない。ただ普段の日常の会話がより親密で個人的な打ち明け話に入る時、誰だって声を落とすはず。話す内容に心がうちふるえているなら、なおさらである。脳天気なお喋りと真剣な告白では声色が違う。そしてわれわれは話された内容よりも、往々にして「色」で真実性をみきわめるのだった。ハーモニーにはさまざまな役割があるが、表現の根幹をなす音色をいわば顕在化させる役割がある。記憶しておいていいと思うのだが。

あのAmがなかったら「心の愛」は心に何も残さない流行歌で終わっていたのではないか。