「昨日」と「空よ」、またはインスピレーションと理論―ビートルズ「イエスタデイ」1

1970年のヒット曲「空よ」(歌 トワ・エ・モア)の記事を新聞で読んだ時、したりと思ったものだ。作詞作曲の難波寛臣さんは、ビートルズの『イエスタデイ』みたいなかっこいい曲をつくりたくて、「空よ」を書いたのだという。「やっぱりそうか」。前からよく似てると思ってた。

「空よ」のもとになったのが「イエスタデイ」だったという。旋律の形がそっくりだ。冒頭の2度下行、そこから旋律は上昇し、下降して、放物線を描く。A7からのDm(平行短調)への傾きも同じである。ところが、である。似ていることが、逆に、細部での違いをきわだたせる。もうちょっといえば、「イエスタデイ」の特異さが浮き彫りになるのである。

1.開始の音の扱い

「イエスタデイ」は開始の音からして座りが悪い。Gはコードにはない非和声音だが、唐突感が否めない。いわゆる「倚音(いおん)」であり、古典的なスタイルでは小節線の前に準備する音を出すだろう。GはFの前打音のようでもあるが、装飾音風でもない。それに対して、「空よ」の方は、2音をアウフタクトとして小節の前に出し、B♭はC7の構成音、Aは次の小節の頭の音の先取音として、すっきりとハーモニーに収まっている。つまり「こういう風に書きなさい」のお手本のようなのである。冒頭の2音が2曲の関係性を象徴している。

2.フレーズ構造

フレーズ構造は「イエスタデイ」が1+2+4=7小節。「空よ」が2+2+2+2=8小節である。前者では小節数が不規則で、後半は入り組んでいて、すっきりしない。後者は2小節単位で、最後の半小節が冒頭アウフタクトの半小節を補う。

3.ハーモニー

「空よ」のハーモニーは定石どおり。最後のドミナントC7を準備するドッペルドミナントのG7など、お手本どおりで、ちょっと西洋音楽のありきたり臭がする。イエスタデイ」はそう単純ではない。2つめのコードEm7はドリア風だが、機能和声的な説明はむずかしいだろう。ただし、かっこいい。一番変?なのは、最後のところである。Dm→G7はいわゆる2-5で当然当然Cが期待される。ところがB♭へすり抜け(西洋音楽的でないブルース的弱進行)、あれ、どうなってんの?という感じ。いつの間にかあっけなくFに辿り着いてる。模範からはほど遠い。

4.楽節構造

「空よ」は以上の8小節が半終止、次に続く8小節が全終止の16小節で完結する。たえとばベートーヴェンの「歓喜の歌」と同じ構造で、クラシカルである。「イエスタデイ」の場合は譜例の7小節の楽節をそのまま繰り返すだけなのである。こちらは民族音楽的であり、ブルースの反復構造とも通じるものがある。

一言でいえば、もとになった「イエスタデイ」よりも「空よ」の方がはるかに模範的なのである。「イエスタデイ」はどこかギクシャクして、不安定である。それに対して「空よ」はいわば優等生であり、それがちょっと鼻につくようでもある。まるで「イエスタデイ」は「空よ」をもとにして、くずしたかのようだ。ところが逆だった。

「オリジナル」はどこから

「イエスタデイ」みたいな曲を書きたいということで「空よ」が生まれたのだった。確かに旋律の形は似ていた。しかし似て非なる曲ができたということは、あるレヴェルから作者の創意がはたらいたことになる。もともと完全なコピーなどありえないし、それをやったら、ただの真似である。しかも「イエスタデイ」はコピーしにくい曲なのである。

なぜなら「イエスタデイ」は単純そうに見えて、一筋縄ではいかないからである。少なくとも、西洋音楽(調性音楽)を土台にして、理論的に曖昧だったり反するもの、不規則なもの、モード的なもの,ブルース的なものなど、いろんなスパイスと渾然一体となって、独自の世界を築いているのである。

だから「空よ」をつくるにあたっては、規範から離れざるをえなかった。その時、作者は何に従ったのか? 当然、みずからのインスピレーションである。そこからオリジナリティが生まれるのだろう。だが、さらにこう問うてみよう。インスピレーションはどこから生じるのか。

作曲とは音を選択する作業であるとすれば、「空よ」の場合、「イエスタデイ」を参考にしながら、作者の中にある旋律の泉から沸き上がる「閃き」「導き」があっただろう。だが無意識からの導きといえども、そこにある種の指向性がはたらいていたように見える。なぜかというと、あまりにも理論どおりだからである。つまり音を選択する深いレヴェルで理論が作用している。

そうした理論がどこからやって来るかというと、われわれが日常的によく聴いている無数の音素材からしかありえない。TVやCDやラジオ、スマホからあふれる音楽、いろんな場面、場所で流れているBGM、好むと好まざるとにかかわらず、現代生活の中でわれわれは音楽にどっぷり浸かっている。そこにはいくつかのパターンがあり、われわれはそれに従って聴いてしまっているのである。それらは知らず知らずにわれわれの身に染みついている。

だから意識していようがいまいが、もととなっている音楽理論を知ろうが知るまいが、われわれはそれに基づいてつくってしまうのである。オリジナルと呼ばれるインスピレーションの深部においてさえ、無意識の音楽経験が影響を及ぼしていることは充分考えられる。「空よ」の場合、まさに理論どおりだと書いたが、後半の8小節で面白いところがある。

12小節目の赤で記したDaug(Dのオーギュメント=増三和音)である。ここは普通なら( )黒で示したコード進行となるだろう。しかしそれだと、1)あたりまえすぎるし、しかも2)すでにG7は6小節目でキメていた和音だったから、2回も使うのはくどすぎる。何の抵抗もなくさらさら流れる予定調和的な音楽は模範解答かもしれないが、ヒット曲としては陳腐で無害すぎる。だからだろう。少しばかり凝ったDaugを使った。声部進行的に美しいとはいえないだろうが*、ちょっとしたスパイスにはなった。

*DaugはD・F♯・A♯の和音でGへのドミナント。ここでは第5音A♯を旋律のB♭とエンハーモニックとしたが、本来A♯は上行する限定進行音である。この第12小節は旋律(思いつき)とコード(理論)の軽いクラッシュだったかもしれない。

あのDaugは誰が採用したのか、どの段階で決まったのか。これは作曲者である難波寛臣さんが、どの程度、和声法を習得していたかとも関係がある。

というのも、音楽理論を知らないがゆえに、かえって理論どおりに、さらにいえば理論に束縛されて書いてしまうことがよくあるからである。「理論を勉強したから、理論どおりに書いてしまう」というのを聞くことがある。逆だろう。すでに理論は自分の中に眠っている。無意識の桎梏からからみずからを解放するために理論を知るべきなのである。

これは音楽に限らない。われわれは「自分」の意見と信じて疑わず、自己主張しているかもしれない。「自分」の好みだといってはばからないもろもろの物、事に囲まれている。しかし、そんな「自分」さえ、誰かの言動や世の中の常識に盲目的に追従しているにすぎないのではないか。われわれは固定観念にがんじがらめにされている。無限ともいえるすり込みにさらされている。そういう一般的状況にまず気づくことで、あるいは気づくことによってのみ、先入見や既成概念から解放されるだろう。それは「自分」の発見でもある。現代社会では無自覚こそ利用されやすい。

いろいろ考えると「イエスタデイ」のはかりしれないオリジナリティに思い至る。それこそがビートルズの音楽の根底にあるものなのだろう。そしてヴァースの音楽の特性は、実は、「イエスタデイ」の世界と有機的に直結しているのである。