ブルースの精神よりのロックンロールの誕生―プレスリー「ハウンド・ドッグ」
エルヴィス・プレスリー(1935-77)の出現は鮮烈だったようだ。マイナー・レーベルで何枚かのシングルをリリースした後、RCAから本格デビューしたのが1956年。初シングル「ハートブレイク・ホテル」で一躍スターに躍り出た。
黒人音楽を白人がとりあげ、商品化しようという目論見はすでに1950年初頭からあった。ビル・ヘイリー(1925-81)は、当時タブー視されていた黒人音楽を白人がカヴァーする可能性を模索していたのである。1951年、まだ「彼のコメッツ」が加えられたグループ名もない時期に、最初の「ロケット88」が発表された。原曲はジャッキー・ブレンストンのリズム・アンド・ブルースで、タイトルは自慢の車の別名である。このカヴァーはしばしばロックン・ロールの先駆とされる。
ビル・ヘイリーと彼のコメッツによる「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の大ヒットをもって、1955年はロックンロール元年となった。曲は映画『暴力教室』で流れ、一挙に注目を浴びた。戦後の空前の好景気のもとで、若さをもてあましていた高校生らが、そこに「自分たちのもの」を見いだしたのだろう。ロックンロールはあっという間に流行の火がついた。しかしこれは前哨戦にすぎなかった。翌年、「キング・オヴ・ロックンロール」が出現するのである。
プレスリーの第1シングルは音楽的には原始的としかいいようのない代物だった。わずか8小節しかなく、コードも最小限の2つ、歌詞は4番までしかない。それでハートブレイク・ホテルに行って「死んじまいたい」というのである。「悲しくてしょうがないから」。といっても、なぜ悲しいのか、単純じゃない。大人たちは物質的な豊かさがあるじゃないか、というだろう。そうかもしれない。しかし、もっと確かなのは、自己の存在が、やりどころのない「理由なき反抗」の中に、出口の見えないエネルギーの渦の中に、得体の知れない心の闇の中にあることだ。それこそ誰もわかってくれない切実な「ぼく」「わたし」なのだ。空しさがこみ上げ、生をむしばむ。だから叫ぶしかない。
自分でもどうしようもない若者の存在の澱をエルヴィスは圧倒的なリアリティで発散した。
ブルースからロックンロールへ
第3シングルは「ハウンド・ドッグ/冷たくしないで」だった。両面ヒットだったが、特に「ハウンド・ドッグ」は全米11週1位という空前の記録をうち立てた。年間ランキングも1位の座についた。12小節のブルース形式を景気よく繰り返すだけの単純な音楽である。歌詞は2番しかなく、何を歌ってるかもよくわからない。「エルヴィスのパフォーマンス」というマジックが大ヒットの理由の大きな部分を占めたのだろう。
原曲はビッグ・ママ・ソーント(1926-84)がバンドのメンバーといっしょに書き上げ、1952年に録音したという。翌年『ビルボード』R&Bチャートで7週1位のなかなかのヒットとなった。ブルース色がかなり強い。
当然、女性が歌う設定となる。歌詞は「女たらし hound dog のあんたには、もう餌はあげない」といった内容である。ブルース的暗喩と性的な意味が見え見えである。
ここで黒人のリズム・アンド・ブルースを白人、それもティーンエイジャー向けのロックンロールに仕立て上げるための、いつもの作業が必要となる。「ハウンド・ドッグ」の作詞作曲とクレジットとされているジェリー・リーバーとマイク・ストーラーはこの段階で登場したのだろう。ただし音楽的には、ブルースの味わい、技巧、裏技などはいっさい排し、ストレートに12小節を繰り返すだけ、飽きたら、ギターの間奏だ。子供には単純さが一番、はい、おしまい。問題は歌詞である。主語は、当然、男となった。
おまえはただの猟犬 いつも吠えるだけ
おまえはただの猟犬 いつも吠えるだけ
ウサギ一匹捕まえたことはないし
おれの友だちでもない
おまえが一流だなんて ただの嘘だ
おまえが一流だなんて ただの嘘だ
ウサギ一匹捕まえたことはないし
おれの友だちでもない
以上の歌詞を繰り返すだけである。「ウサギ一匹捕まえたことはない」がキーワードになったというが、歌詞の改変にあたってのポイントがあった。それはブルースによくあるセクシャルな含意を消し去ることである。性的な毒を抜きとる。何といっても、ターゲットは高校生以下のローティーンだったからである。
だがそれにしてもバカみたいに単純すぎないか。重複がやたら多い。それに、これって、ただのヘイト・ソング?
それでも、生は素晴らしい
「ハウンド・ドッグ」の詩は、案外、難しい。わたしなりに解読してみよう。
「おまえは犬だ」という時、悪口でしかない。「猟犬」だというなら、さらに見下した意味合いがとれる。まず猟犬そのものの本性としての「主人に仕える立場」がある。猟犬は主人が撃った獲物をとりに行き、くわえて帰ってくるが、食べてはならない。自分の欲求が入る余地はない。なぜなら主人に絶対服従だからである。おいしいものは主人がもっていく。それでも猟犬はしっぽをふって、主人に愛想を振りまく。
そんな猟犬の本性に加えて、猟犬=「おまえ」はウサギを捕まえたこともないという。犬以下ではないか。猟犬根性丸出しのくせに、猟犬なら当然のこともおまえにはできない。おまえは「最低のやつだ」。「おまえ」が人間だとしたら、ここでいう「狩」とは、「愛の狩猟」ということになる。つまり「おまえはウサギ=女の子もゲットできない奴だ」。しかもいつも吠えたてているくせに、口説き落とせないでいる。そんな奴は友だちでも何でもない……。
ここまで来て、この詩がもつ過剰なまでの侮蔑の調子と徹底した否定に、何か一線を越えたものを感じないだろうか。そこまでいったら、たとえそれが真実であろうと、いや真実であるからこそ、人間関係を破壊しかねない。「そこまではいわない」というのが常識だろう。もしこの常識が健全であるとしたら、こう読み換えるべきではないか。「おまえ」とは「自分」だ、と。自分との関係だけは切れない。
2コーラス目では「みんなはおまえを一流 high-classed」だという。おまえ=「ぼく」に対する世間の評価はそうかもしれないが、「本当のぼく」は知っている。「そんなの嘘」だと。本当の自分はみじめで最低の奴なんだ。
こうして、おまえ=ぼくと置き換えることによって、アイデンティティの問題が浮上する。みんなに見られている自分と、本当の自分は違うんだという自我の分裂が露呈するのである。そしてここから最後の行が理解される。おまえは「おれの友だちじゃない」。本当の自分は、自分自身でも友だちにしたくないような奴だ。
ぼくは自分が大嫌い。ここに自分自身に対する残酷な眼差しと、自嘲的なものさえ感じないわけにはいかない。ようく知っている。おまえ=自分は最低の奴で、自分自身でさえ認めたくない。そんな風に自分を見ているわたしがいるのである。しかし同時にある種の誠実さも読みとれる。「本当の自分」を直視し、みずからに隠さず、いいわけもしない潔さと強さである。
それにこの仮借ない自己批判をしているのは、「なりたい自分」にほかなるまい。つまり「本当の自分」に対峙し、厳しく否定しているのは「なりたい自分」なのである。「こうありたい」という理想と現実のおまえ=自分はかけ離れているのである。でも彼は何もごまかしてはいない。真に恐ろしいのは自分が自分と馴れ合うことである。「本当の自分」をごまかし、「なりたい自分」をなくしてしまうことである。
「ハウンド・ドッグ」の主人公は「なりたい自分」が強いために、みずからをこき下ろしているのである。彼に必要なのは、友だちになれない自分自身も受け入れることだろう。しかし、この詩のように、自己表現すること、言葉にすることは、すでに「受け入れ」の第一歩が始まったことを意味する。そして「なりたい自分」を失わない限り、彼はそこに近づいていくだろう。「ハウンド・ドッグ」は現実と理想の狭間で苦悩する若者の心象風景のように映る。しかし彼には光が見えている。
以上は、おそらくは作詞家が意図した以上の深読みなのだろう。しかしブルースの本質、すなわち現実を直視する勇気、したたかな「なんとかなるさ」の解毒作用、そして生への柔軟で強靱な意志、そんな素晴らしい人間的なものが具現されているように思えてならない。それはブルースの本源にあるものではなかったか。