恐怖のもっとも深い発生源―ヒッチコック『フレンジー』
「闇こそはあらゆる恐怖の根源ではないか」と書いた(「ヒッチコック的恐怖の現代性―『裏窓』の場合」)。しかし根源のそのまた根源があるかもしれない。『フレンジー』は恐怖の究極の源へ向けての探索といえるのではないか。
『裏窓』(1954年)『めまい』(1958年)『サイコ』(1960年)『鳥』(1963年)といったそうそうたる名作を放った後、さすがのヒッチコックにも創作の衰えが囁かれた。そんな晩年に巨匠の健在を見せつけたのが『フレンジー』(1972年)だった。
ロンドンで起きた猟奇的連続殺人事件の話である。被害者はいつも女性で、レイプされ、ネクタイで絞殺されている。犯人は市場で果物を商うラスク。どこにでもいるようなお調子者で、いつもスーツを着て、もちろんネクタイを忘れない。ありふれた日常にありえない非日常の亀裂が走るという構図の最たるものは『鳥』だった。だが『フレンジー』ではこの主題に入り込むより、監督はブラックなユーモアをあちこちにちりばめるのを楽しんでいるかのようだ。
喩えば映画の冒頭、ロンドンの上空からテムズ川が映し出される、そこから長いクローズ・アップが始まる。川に架かるタワー・ブリッジを通過し、川岸での演説に群がる人々へ接近する。どう見ても、これは『サウンド・オヴ・ミュージック』(1965年)の導入を連想させずにはおかない。アルプスの山々から長回しが始まり、ついにひとつの丘に接近し、踊るように歌うジュリー・アンドリュースを映し出す。このパロディーが『フレンジー』なのか。いや、もともと長回しはヒッチコックのお家芸だったはずだ。つまり『フレンジー』冒頭はパロディーのパロディーなのか。
『サウンド・オヴ・ミュージック』では、クローズ・アップは自然を賛美するさわやかなマリアの姿・歌声に収斂していったのだった。『フレンジー』は違う。川辺の演説では、公害を一掃し、古き良き時代のテムズ川が戻ってくると、行政の努力が讃えられるのだが、その時、どこからともなく声が上がる。「見て!」。指さした先には、水面に裸体の絞殺死体が浮かぶ! 二重のアイロニーが効いてる。『サウンド・オヴ・ミュージック』へのブラックなからかい。そして、いうまでもなく「川の汚れを駆逐する」という演説への皮肉である。いずれにしても、笑えないアイロニーといえよう。
笑える、笑えないでいえば、次のシーンはどうか。ラスクは首尾よく?殺人を終え、死体をズタ袋につめ、ジャガイモを満載したトラックの荷台に投げ込んだ。一件落着。ところが、ふと、いつもスーツに付けてるピンがないことに気づいた。「さては殺害した時に引きちぎられたか」。そこで走るトラックに飛び乗って、ピン捜索が始まる。揺れる荷台で踊るジャガイモと死後硬直した死体との格闘である。本来、不気味なシーンであることはいうまでもない。しかし何ともいえないおかしさが漂う。ラスクは大真面目なのだが、じゃがいもに翻弄され、死体に足蹴にされるという悲喜劇。ヒッチコックの独壇場である。
もうひとつ。殺人事件を担当した警部を悩ましていたのは、捜査ではなく、凝った料理にはまる奥さんだった。警部としてはビールにフィッシュ・アンド・チップスで充分だったろう。いやまさにそれが食べたかっただろう。ところが何たらという得体の知れない、高級なフランス料理?が出る。どうにかして逃れたいのだが、テーブルについて、食べないわけにはいかない。この拷問から救い出してくれるのは、警察署からの呼び出しだった。
はっきりいって、こういったエピソード、特に最後のものなどは省いてもよかったかもしれないとも思う。なぜなら映画の究極のテーマを薄めてしまい、全体を散漫にしているようにも思えるからである。とはいえ、こうした英国的ジョーク的「遊び」「余裕」が『フレンジー』を深刻さから救っているのかもしれない。
プロット自体は単純である。連続殺人犯のラスクの今回の犠牲者は、顔見知りのブレイニーの離婚した奥さんだった。殺害後、生活に困窮したブレイニーを何かと助け、ラスクは彼を殺害犯に仕立て上げてしまう。ここで映画のもうひとつのテーマ「冤罪」のモティーフが絡み合うことになる。しかし問題はもと奥さんブレンダの殺害場面である。
ブレンダのオフィスに押しかけたラスク。とりとめのない会話から、徐々にラスクの陰湿でいやらしい言葉におぞましい意図がにじむ。レイプ魔の素顔がちらつく。するとその時、唐突に凶行が始まるのである。逃れようとするブレンダは足を掴まれ、倒され、衣服がめくれる。「あれー、こんな簡単に、あっけなく始まるのかー」と思った瞬間、「実際はこうなのかもしれない!」という思いがよぎる。受け入れたくない、見たくないという本能的な拒否を暴力的にはねのけるように、執拗に事実・現実を見せつける。露骨な的描写はないが、生々しい。画質も妙に「物質的」ともいえるリアルさだ。こんなのヒッチコックであったか?
これを見ると、映画で描写されたあらゆる殺害シーンはきれいすぎないか、つくられすぎていないか、という疑念に陥る。ヒッチコック自身も例外ではない。下の左は『サイコ』でのシャワー室における凄惨な殺害の犠牲者である。有名なシーンだが、それに対して、右は『フレンジー』。一目瞭然だろう(『サイコ』で死体が瞳孔を閉じていると批判され、『フレンジー』では反省・修正されたという)。
『フレンジー』には美しく見せる演出などいっさいなく、どぎつく、まさに目の前で起きているような「手触り」がある。いや、むしろこう思えてくる。物語を描くとか、現場の凄惨さを見せるとか、犯人と犯罪のむごさを表現するのではなく、この「リアリティそのもの」が描写の目的なのではなかったか、と。
観客はあっけにとられたまま、映画は次のシーンに移っていく。さらなる凶行が起きる。今度、ラスクの魔の手にかかるのは、ブレイニーの元同僚であり、ガール・フレンドのミリガン嬢である。職を失って、困っている彼女に「旅に出るから、遠慮なく部屋を使えば」と誘い、自分の部屋に連れ込む。またもや凄惨な殺害が現出するか?と思いきや、ヒッチコックはさっきとは全く別のアプローチをとる。
通りから、家に入り、廊下から階段を上る二人をカメラが追う。部屋の前に着いて、ラスクがドアを開く。室内に入る二人。そして扉が閉められる。ここからである。カメラは徐々に長回しでズーム・アウトする。引くカメラは階段から階下の廊下へ遠ざかり、さらに、入り口を出て、建物全体を映し出す。二階にはカーテンが下ろされ、中で何が行われているかは見えるはずもない。
最初は不気味な静寂だったが、カメラが引く間に外の騒音が混ざり。生活の音が戻る。こうして凶行は日常へ消えていく。「この街の日常のどこかで犯罪が行われているかもしれない。たとえばきみの隣の部屋で」というかのように。
ヒッチコックの声が聞こえるようだ。「リアルな直接的描写と、そのものはいっさい映さない間接的な描写と、どっちか怖いかね? どっちがぞっとするかね? 諸君」。
わたしなら「後者だ」というだろう。
薄笑いを浮かべて、サスペンス映画の神様はこう応えるにちがいない。
「そうだろう。恐怖のもっとも深い発生源は想像力だからだ」。