クリスマスにそよぐ日本的なもの?―ジョン・レノン「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」
巷にクリスマスの音楽が流れる時期になると、聴きたくなる曲がある。ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス Happy Christmas」である。ただのクリスマス・ソングではない。War Is Overというサブタイトルが、曲のメッセージを告げている。日本語のタイトルでは「戦争は終わった」と訳されるが、正確には「戦争は終わる」だろう。
もしもあなたが望むなら
曲が発表されたのは1971年12月。ベトナム戦争たけなわの時代だった。曲はジョン・レノンと小野洋子がラヴ・アンド・ピースの運動を推進していた時期にあたる。戦争は続いており、決して終わってはいなかった。そんな時に二人が起こした平和運動は暴力的な闘争めいたものではなかった。そうではなくて、平和へのメッセージを音楽をとおして発信することにあった。
では「ハッピー・クリスマス」のメッセージはどこにあるのか。曲が始まり、しばらくすると、メインの歌に絡みつくように War is over の声部が隙間を埋めていく。実はこの部分にこそ、曲のメッセージの核心がある。こう歌われるのである。
戦争は終わる もしあなたがそれを望むなら War is over if you want it
そう、戦争を終わらせるものがあるとしたら、勝利でも敗北でもない。武器でも殺戮でも、ましてや核兵器などではない。ほかならぬ、あなたが「平和を望むこと」にあるのだ、という。望まないこと、諦めが戦争を続けさせるのである。もしもすべての人がそんな平和への望みをもつなら、戦争など起こりえない。
そもそも望みがなかったら、何の達成もない。世の中を変えるすべての起点は「望む」ことにある。現実を変革するのは非現実的な「望み」を出発点とするしかない。ここにジョンとヨーコの運動の核心がある。
曲はAメジャーから始まり、巧妙な転調を経て、4度上のDメジャーに至る。そこで小野洋子が A very merry christmas と歌い上げる。かつての「ア・ハード・デイズ・ナイト」を想い起こさせる。そこではサビがジョンには高すぎるということで、ヴォーカルがポール・マッカートニーに入れ替わった。同じことが「ハッピー・クリスマス」でも起こった。ただしジョンと交替したのはポールではなくヨーコだった。
ビートルズは1970年にすでに解散しており、ポールの位置は完全にヨーコにとって代わられたかに見える。
「イマジン」との接点
しかしジョンへの貢献度は決してポールに劣ることはなかった。それどころか、ヨーコはジョンに対して思想面でも影響を与えた。
「ハッピー・クリスマス」の2ヶ月前にアルバム『イマジン』が発表されている。そのタイトル・ソングは次のように歌い出されたのだった。
想像してごらん 天国は存在しない Imagine there’s no heaven
やってみれば 簡単さ It’s easy if you try
想像することが大切だという。そんなに難しいことじゃない。「トライしてみれば、簡単だ」というのである。ここでいう「想像する」を「望む」に置き換えたのが「ハッピー・クリスマス」だったといえよう。いわば「ハッピー・クリスマス」は「イマジン」の強化版だった。強化版というのは、ただ想像するだけでなく、望むという意志が起動しているからである。世界を変革するものはきみの心にあるという思想が同一であることはいうまでもない。
1971年にリリースされた「ハッピー・クリスマス」の日本盤のピクチャー・スリーブには小野洋子による次のような日本語の直筆メッセージがあったという。「『イマジン』で示した切なき平和への願いを、今また、クリスマス・ソングに託して…世界に限りなき平和を…」。これに加えて、ジョン・レノンによるイラストとサインが添えられたという(日本語版 wikipedia)。二つのことが確認できる。「イマジン」の思想を受け継いだのが「ハッピー・クリスマス」であり、両者が繋がっていたことは自覚されていた。もうひとつは、メッセージを発した主体はヨーコだっただろうということである。
1999年に出版された自著『ビートルズ音楽論』(東京書籍)の中で、わたしは『イマジン』の思想が小野洋子の影響を受けていることを指摘しておいた。生前からレノンもそのことをたびたび口にしていたことが後に明かされた。だが共作と認定されたのは2017年だった。『ハッピー・クリスマス』も同じ事情にあることは明かである。特にこちらではヨーコはヴォーカルでも参加しているのである。
日本的なもの
それにしても『イマジン』のサウンドが穏やかな平和そのもののように響くとしても、歌っている内容は、聞く耳にとっては、破壊的でさえあるだろう。国家も宗教も無い世界を想像してごらんというのである。天国も地獄も存在しないというのである。西洋では宗教は人格の核となり、道徳性の起源とみなされる。だから無宗教は厳しく断罪されたりもする。そして、日本のように、宗教的な戒律にあまり束縛されない国民性は厳しい目で見られることにもなりかねない。
だが2011年の3.11、いわゆる東日本大震災の壊滅的な状況に在って、略奪も起こらず、常に他者をリスペクトする姿勢を崩さず、自分よりもっと困っている人への援助を惜しまなかった日本人に世界が驚嘆したことは記憶に新しい。特に宗教の教えや強制的な規則もなしに、道徳が可能であるかのようではないか。クリスマスを祝い、新年は神社へ出かけ、お寺で葬式を挙げる「無宗教な」国民なのに?
たとえば『旧約聖書』では神が世界を創造し、みずからに似せて最後に造った人間に支配しろと命じたとある。神は世界から超絶しており、地上では人間が神のように治めろというのである。しかし支配の構図の中に逆に宗教がとり込まれる。そこから果てしない闘争の波が押し寄せる。宗教を否定した共産主義は人間による人間の支配の完成形にも見える。ただ決定的なのは、人間は神ではないということである。
だが『イマジン』の平等主義は共産主義の世界とも違う。それはあの東日本大震災の時の日本のように聞こえるのである。神のようなわたしを主張するのではなく、他者を思いやる心を失わない人々が集うひとつのユートピア的世界とでもいえばいいか。西洋的世界観の根底にある「支配する人間」と「支配される自然」という対立もここには無い。そもそも日本の「八百万の神」は多くの神が存在するという意味ではない。すべてが神だということであり、だからこそ、無のようでもある。われわれは世界と一体化しており、わたしは自然とひとつなのである。
どちらが上とか下とかいう支配関係ではない。あるのは生かされていることへの感謝なのである。
『イマジン』に感じるのはそんな日本的な平和主義である。そしてその穏やかな風が『ハッピー・クリスマス』にそよいでいるようだ。それはほかならぬ小野洋子からにじみ出た日本的なものが、ジョン・レノン経由で表現されたのではなかったか。






