モーツァルトだって考えた1―弦楽四重奏曲ト長調K.387

「無意識の天才」という19世紀の代表的なモーツァルト観は現在でも生きている。いや『アマデウス』の大ヒットなどによって、主流になったといっていいかもしれない。神に愛されたモーツァルトはミューズから送られた音楽を受けとり、楽譜に起こすだけの「受信機」だったという発想である。これは必ずしもおとしめているのでない。それほどモーツァルトの天才は凄かったというのである。

ただし、ただの受信機だから、人間としてはひどかった。おちゃらけたお馬鹿さんであり、子供のような浪費家だった。オペラの台本なんか、吟味などせず、丸呑みして、音楽を垂れ流した。ところがその音楽の何と美しいこと。いやはや、これも彼をおとしめているのではない。それほどモーツァルトの天才は凄かった……云々。

しかしモーツァルトはこんなことも書いている。6曲からなる弦楽四重奏曲集『ハイドン・セット』を捧げたハイドンへの献辞である(1785年9月1日)。

わが親愛なる友ハイドンに

自分の息子たちを広い世間に送り出そうと決心した父親は、当節きわめて高名であり、しかも、幸運にも最上の友となった方の庇護と指導のもとに、彼らを委ねるべきと考えました。―
そこで高名にして、わが最愛の友よ、このようにしてわが六人の息子をお預けします。― 彼らは、まさに、長い辛苦の成果ですが、多くの友人たちが与えてくれた、この労作で報いられることがあるだろうという希望に励まされ、また、これらの息子たちがいつの日にかなんらかの慰めになろうかと期待を抱くようになりました。

『モーツァルト書簡集Ⅴ』海老沢敏訳、白水社、2001年、124頁。なお、一部、手を加えさせていただいた。訳者の了解を請う。

6曲の弦楽四重奏曲は「長い辛苦の成果」であり、「労作」であるという。つまり苦労してつくりあげた、努力の賜だというのである。辛苦?労作?「受信機」には無縁のものではないのか。もしもモーツァルトが嘘を書いているのでないとしたら、無意識の天才像を祭り上げている人々はこれをどう理解するのか。こういう疑問がさらに進み、モーツァルトが音楽についての著述を企てていたことを発見し、オペラの台本を読みあさっていたという事実に出会うと、どう折り合いをつけるのか。

そしてドキュメントもさることながら、音楽そのものの中に何らかの努力の痕跡はないのか。そこで『ハイドン・セット』第1曲ト長調K.387である。第1楽章は次のように始まる。下はいわゆる第2主題である。

第1主題は分散和音で始まる。主和音G・H・DのHを欠いているが、分散和音的な動きとみなせる。これに対して、第2主題は同音反復が目立つ。FisやAが何度も強調されるのである。「分散和音」と「同音反復」、これを憶えておくことにしよう。

続く第2楽章は珍しくメヌエットである(ハイドンの影響だろう)。モーツァルトがこの曲の創作にかけた並々ならぬ意気込みは形式に現れている。4つの楽章がすべて主題を2つもつ、いわゆるソナタ形式的な図式で書かれているのである。ピアノ協奏曲第5番ニ長調K.175(1773年)でもそうだった。自分の楽器のための初のコンチェルトであり、意欲的な創作だった。ただしフィナーレまでソナタ形式というのはちょっと重かったとモーツァルトは感じたのだろう。後年、ウィーンで再演する時(1782年)、より軽快なロンドK.382を新たに作曲し、置き換えた。

この弦楽四重奏曲では、ト長調のメヌエットの主部、それにト短調のトリオまで、ソナタ形式的な2つの主題からなる。

メヌエットの第1主題は分散和音で始まっており、冒頭のG-Dは、上行と下行で方向は違うが、第1楽章冒頭と同じ音である。それに対して第2主題はFisを同音反復する。トリオも分散和音で始まり、第2主題的な旋律はEsの同音反復である。

ここまで来て、疑問が湧かないだろうか。分散和音-同音反復というパターンが続きすぎる。作曲というのは、単純にいえば、音を選択する作業だが、これほど一定の方向性を帯びるというのはどう考えるべきか。

第3楽章はハ長調となる。堂々たるソナタ形式である。

驚くべきことに、第1主題は分散和音で始まり、第2主題はD、G、Eが同音反復される。これまでのパターンが踏襲されるのである。ここまで来ると、おそらくは宝くじに当選するほどの偶然性に委ねるよりは、何らかの意識がはたらいているとみなす方が蓋然性が高いことに気づくだろう。「意識がはたらいている」つまり考えているということである。

モーツァルトはひとつの楽章を書き終えると、やみくもに次の楽章にとりかかり、主題を吐き出したというより、「考えた」ということである。「第1主題は分散和音で始めよう、第2主題は同音反復だ」。こうした意識的な操作、あるいは努力が主題の成立にかかわっていたとみなすことなしに、これらの一致を説明できないに違いない。努力の賜の一端がここにある。また意識があるということは、ただの「受信機」ではないし、「無意識の天才」ともいえなくなる。

さあ、そこでフィナーレである。

第1主題は分散和音的だが、主和音に含まれるDには変化球的に?到達する。ところが第2主題で、期待は見事に裏切られるようだ。DやEの先取音で最低限の反復はなくはないが、これでは同音反復的とはいえないだろう。これまで追ってきた意識のトレースは無駄だったのか? ありえないような偶然の迷宮を彷徨っていたのか?と思い始めたその瞬間に、主題が繰り返される。

すると、主題は変奏され、何と!同音反復が強調されるのである。さらに主題が繰り返され、リズムが細分化される。続く部分でも同音反復は続く。

まるで最後に裏をかいて、遊んでいるかのようだ。モーツァルトの微笑みが垣間見えた瞬間か。これは「分散和音」-「同音反復」の原理が意識的に行使されていたことをかえって強く確信させずにはおかない。

「意識的な天才」を示唆する音楽的根拠はさらに続く。