天上の楽士たちによる響きの饗宴さながらに―ブルックナー 交響曲第5番

ブルックナーがコラールの重要性に気づいたのは交響曲第4番の第1楽章だったかもしれない(本ブログ「ブルックナーがいいたかったこと」参照)。しかし、第4楽章は先立つ楽章を受け止め、まとめあげ、ひとつの結論に導くフィナーレにはなりえなかった。もともとハイドンなどの古典的な楽章構成法では、交響曲の重心は第1楽章にあった。フィナーレを曲全体のクライマックスとしたのはベートーヴェンだった。

交響曲第4番の経験を踏まえて、ブルックナーはベートーヴェンの『第9』に交響曲のひとつのあり方を見たようだ。

ベートーヴェン『第9』から何を学んだか

ブルックナー交響曲第5番の第4楽章の冒頭で、よく『第9』との類似性がいわれる。そのままではないかと。

周知のようにベートーヴェンの『第9』では第4楽章の冒頭に、第1楽章、第2楽章、第3楽章が回帰し、それらを乗り越えて第4楽章に到達するといった演出がなされる。そうした意図は楽器だけではまだ曖昧だが、あとで「これらの響きでない、もっと心地よい歌を」と歌われることで、明確に理解される。器楽による抽象的な表現から言葉による説明に至る、いわば意味づけにおけるアップグレードがあったわけだ。

前の楽章の素材を呼び出しはしたが、ブルックナーにはこういう論理的展開はない。純粋器楽ではできない。まず第3楽章が終わって、第1楽章の序奏が響くと、まるで振り出しに戻ったような気分にさせられる。するとフィナーレの第1楽章の断片がクラリネットにひょっこり現れる。次に第1楽章第1主第が来る。またあの断片。……要するにクラリネットは前の部分を招き入れるためのホストのようだ。いや、あくまでも「~のようだ」としかいえない。歌詞はないから『第9』の意味的必然性を感じる間もなく、第1主題によるフーガ的展開が始まる。

ブルックナーのこの部分、荒唐無稽だという向きもあるだろう。だが『第9』から学んだものがあるとしたら、もっと本質的な構造にかかわるアイディアにこそ目を向けるべきである。

ベートーヴェンの『第9』フィナーレの構造を大雑把に(主題本位に)説明すると、こうなる。1)「歓喜の主題」、2)「抱き合えの主題」、3)「歓喜の主題」+「抱き合えの主題」の二重フーガ、4)「歓喜の主題」によるコーダ。以上である。楽譜で確認すると、1が「歓喜の主題」(ここでは四分の六拍子に変形されている)、2が「抱き合えの主題」、両者が二重フーガで同時に出る。

重要なのは、主題が2つ出て、それらが対位法的に組み合わされるという構造である。ただしブルックナー5番の場合、歌詞がないから、ソナタ形式の図式に組み入れる必要があった。まず第1主第、それからブルックナーの定石どおり、第2主第、第3主題(≓第1主題)が来る。ところが、コデッタでいきなり金管のコラール主題が出る。それから展開部に入り、コラール主題が対位法的に展開していく。そこに第1主題が侵入してくる。

これらの素材から、上の『第9』に習って配列すると、1)第1主第、2)コラール主題、3)第1主第+コラール主題、4)コラール主題によるコーダという構成となる。完璧に『第9』からて来ていないか。第1主第とコラール主題は次のように組み合わされる。

上の譜例は二つの主題がはじめて二重対位法に提示される第270小節以下であり、分析家は「再現部に入った」というかもしれない。だがそれより面白いのは、第2主題は変ト長調であり、第1主第は変ロ長調ではじまって、半小節後にあっという間に長3度下の変ト長調へに遠隔転調することである*。ロマン派の3度転調への偏愛ぶりを示す例でもある。

*理論的な話になるが、あとで重要になるかもしれないので、一言。こういう場合、ぶっとんだ調からもとの変ロ長調へどう戻ってくるかが問題となる。ブルックナーは第2主題のⅣの和音Es・Ces・Ges(第1転回形)を変ロ長調のナポリの6の和音 N6 と読み代えて、瞬時に変ロ長調へ帰還するようにしたのである。遠隔調同士の貴重な共通和音を利用したのである。まるで和声課題のようだ。

以上のように、第1主題をまず出して、それから第2主題、そしてそれらを対位法的に組み合わせるという発想がきわめてベートーヴェンなのである。ほとんど『第9』なしには考えられまい。だがさらに重要なポイントがある。

「地上」対「天上」

『第9』の「歓喜の主題」が謳い上げるのは地上的な喜びである。喜びには「神々の火花」が宿るというが、人間的な営みの中で、歓喜の根源を高らかに歌うのである。ところが曲調は一転する。厳かなアンダンテAndante mestosoとなり(595小節)、トロンボーンが存在感を顕し、男声合唱が「抱き合えの主題」を歌い出す。完全に教会の雰囲気である。そして、天におわす創造主が呼び出され、神のもとですべての人々がひとつになる理想を唱える。そして、厳粛に、創造主にひざまずけというのである。

だから「歓喜の主題」と「抱き合えの主題」の二重フーガとは、地上と天上の合体だった。

要するに「歓喜の主題」と「抱き合えの主題」は「地上」と「天上」、あるいは「世俗」と「宗教」の象徴だったということである。ブルックナーの5番が踏襲したのはまさにここなのである。第1主題は跳躍と付点が多く、リズミックで、歌詞こそないが、身体的、舞曲的、あえていえば世俗的性格といえる。それに対して、コラール主題は宗教そのものである。このコラールは特に「ドレスデン・アーメン」を思わせるともいわれる*。

ドレスデンの王室礼拝堂で使用するためヨハン・ゴットリープ・ナウマン(1741–1801)によって作曲され、19世紀に好んで用いられた。主音から属音への上昇に特徴がある。

英語版 wikipedia

世俗的な主題と宗教的な主題の配置と合体、これこそがブルックナーが『第9』を参考にしたポイントだっただろう。しかしその「処理」は違った。

コーダに何を置くか

『第9』では宗教的な場面の後、二重フーガのクライマックスを迎え、祭りの後は独唱者によるカデンツァ、それに「歓喜の主題」の乱舞だった。ここでブルックナーはベートーヴェンと訣別を告げる。問題はコーダだった。

長い展開の果て、ついに第546小節の ppp 、ティンパには属音のオルゲルプンクト、最終局面のクライマックスを目指すクレッシェンドが始まる。そして21小節の漸次的な高揚を経て、ついに第564小節で fff が爆発する。現れる主題は第1主題の全貌ではなく、最初の2小節のリズム動機である。動機は音楽を活気づけるモティーフとして、この後、さまざまな形で偏在することになる。フォルテ3つはこの後も「fff」「常にフォルティッティシモ sempre fff」とこれでもかこれでもかと指示され、終止の複縦線まで大音響が続く。72小節も続くフォルテ3つのクライマックス。おそらくはギネス物だろう。匹敵するのはベートーヴェン『第9』第1楽章の再現くらいか。

そしてついに満を持してのコラール主題の登場である。「コラール 最後までfff Choral bis zum Ende fff」とある。

徐々に盛り上がってきた変ホ短調からの変ト長調への転換。到達感はなく、あっけないほどに意外な進行である。しかしコラール主題が変ト長調で入ってきたのには意味がある。第1主第と組み合わされた時のように、コラールは変ト長調で始まり、変ロ長調で終止するからである。まさにそのとおり、変ロ長調に解決する。そして2回目。

コラール主題は、今度は、変ニ長調で入ってくる。変ロ長調から3度転調で導入されるのである。変ロ長調から短3度上の変ニ長調への転調は、長3度下の変ト長調の転調より希である。しかし主題内でさえも変ト長調へ行き来していたのだから、もはや使えない。というわけで、よりありきたりでない変二長調が使われた。主題は変二長調ではじまり、ヘ長調で終止。1回目を5度上げただけで、理論どおりである。

しかしこれまでのコラール主題は、主題の特性上、調的にプロセス的であり、安定したクライマックス、そして壮大な終止には向かない。音楽はこの後AABAのB的な部分に入り、そしてついに最後のAのコラール主題の出現を迎える。これこそ交響曲第5番最大のクライマックスである。

金管のあらんかぎりの咆哮にティンパニの轟きが響いてくる。トニックへの解決を待ち望むドミナントである。さあ、ついにその時が来た。スコアを引用しよう。

ティンパニは安定した主音を打ち鳴らし続ける。コラール主題はもはや変ト長調などではない。はじめての変ロ長調版で、途中で転調もしない。主音の上でどっしりと、高らかにドレスデン・アーメンを謳い上げるのである。交響曲第5番の頂点はここに極まる。

その時、ベートーヴェンとの訣別が決定的となる。『第9』は歓喜を讃え、途中で宗教性を呼び起こしたものの、最後は祭りの熱狂の渦に駆け込んだ。ブルックナーの5番フィナーレも似たような経緯を辿ったかもしれないが、最後に到達したのは壮大な祈りだった。ブルックナーにとっての究極的なものは「祈り」であり「宗教的なもの」だったのである。

それにしても、スコアから見る限り、最後の決定的なコラール主題の出現はトランペットに委ねられている。もし輝かしい色でコラールを浮き上がらせたかったら、1オクターヴ上で書いたかもしれない。ブルックナーが聴いたのはそんな華やかな響きではなかったのだろう。だから金管の音の洪水の中でトランペットのコラールは埋もれてしまう可能性が否定できない。明らかに指揮者の慧眼と音の整理が必要となろう。これは簡単ではないようだが、ここではショルティの演奏を上げておこう。クレッシェンドのところから。

何という音響だろう! 金管楽器の音の氾濫のただ中に神々しいイメージがたち昇る。ブルックナーの頭の中にはメムリング『天使たちの奏楽』(1480年頃)があったかもしれない。少なくとも天上から響き渡る天使たちの合奏もかくぞや、と思わせる。

原作は『キリストと歌い合奏する天使』だが、ここでは『合奏』の部分を引用した

ブルックナーよりの補足

まあ交響曲はにぎにぎしくこれで終わってもよかった。でも作者はちょっとした付け足し?をした。上のスコアの後、ブルックナーの座右銘ともいうべき音型で曲を結んだのである。最後の最後で、宗教家ならぬ、音楽家ブルックナーが姿を現したのか?

なぜならソーミレド(移動ド)は第1楽章の主要主題の音型であり、同一音型で曲をまとめるという純音楽的な意図しか考えられないからである。