禍の嵐がすぎ去って―ヒッチコック『鳥』のポリフォニー

この映画を観て、衝撃を受けない人はいないだろう。鳥が人間を襲う。1963年に発表されたパニック映画の古典であるが、これほど深い印象をわれわれに刻みつける映画はあまりない。

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登場人物の一人である鳥類学の専門家は「鳥との戦争? ありえない」とあざ笑っていた。しかし鳥が襲来する現場に遭遇して、誰よりも怯えきっていたのは、ほかならぬ彼女だった。

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確かに驚くべき展開である。だが、その背後にある人間ドラマも見逃すべきではあるまい。本来の主題と平行し、呼応しながらも、それ自体の展開を示す流れがある。劇的なプロットにおけるポリフォニー*ともいうべきこの作法は、ヒッチコック作品の特徴でもある。あるいはポリフォニックであることは、音楽がそうであるのと同じく「いい映画」の条件とさえいえるかもしれない。われわれは圧倒的な鳥の襲撃に目と神経を奪われがちだが、実は『鳥』の究極のテーマは別にあるかもしれないのである。

*ポリフォニー polyphonyは、旋律と伴奏ではなく、複数の独立した声部が同時進行し、音楽を織りなす多声音楽を指す。形容詞はポリフォニック。典型的なのはバッハの音楽。

ありえないことが起きる

映画『鳥』がもたらす根源的な恐怖はどこに由来するのだろうか。つまりヒッチコックが恐怖でわれわれに攻勢をかける時の戦略である。

たとえばゴジラのようなとてつもない怪獣が襲ってきたら、われわれは恐怖に陥るだろう。当然である。とんでもない怖いものが、出現して、街を壊す。怖いはずだ。しかしわれわれが地球上で共に住んでいる鳥が、ある日突然、凶暴な牙をむくというのはどうか。

怖いものが怖い。あたりまえである。しかし怖くないものが急に怖くなるというのは、恐怖の質が違うはずである。そもそも後者では怖いのは「もの」ではない。見慣れたものの「背後にある何か」なのである。視覚的にも怖いものは恐怖に納得がいく。しかし見慣れたもの、親密でさえあるものが、突然、恐怖と化すと、納得がいかない。合理的な判断はいやおうなしに停止させられ、何が何だかわからない状態はいっそう深くなる。恐怖は本能的なレヴェルへと到達するのである。

恐怖というのは自己保存のための本能のバリアーだろうが、対象が混乱することで、防衛ラインは惑乱する。映画の最後のシーンで籠のインコを持ち出して、脱出するシーンがある。「インコは大丈夫よね」。そうだろうか? 一見おとなしくしているカラスたちの大群が、足の踏み場もないほどたむろする中を、恐る恐る逃げ出す。いつ何時、鳥たちは暴れ出すか! ハラハラのきわみである。なぜ彼らが凶暴になったのか、わからないからである。脱出シーンはヒッチコック的恐怖を象徴する場面といえよう。

恐怖の心理学?はともかくとして、恐怖は基本的には「わからない」ことから発生するとしよう。ゴジラの場合は合理的理解の範囲を超えた「破格のもの」の出現が基本にある。あくまでも異界からやって来た異物なのである。だが『鳥』では日常的な存在が「わからない」理由で凶器と化すのだった。すると、われわれの生活の場そのものが戦場と化す。

「ゴジラは怖い。でもゴジラがいなければ安全]とはならないのである。『鳥』の恐怖は「もの」ではなく「背後にある何か」に起因するといったが、だとすると、どこでも戦場と化す可能性がある。「もの」が出没する場所が恐怖の対象となるのではない。いつでも、どこでも、日常が危険にさらされることになるのである。安全圏というものはない。恐怖は病原菌のように、目に見えることなく、場所と時間を超えて広がるのである。恐怖は底なしとなる。

怖いのは人間

しかしあの鳥類学者はいう。「あらゆる生物を脅かしているのは、むしろ人間だろう」。怖いのはこっちの方だという人間批判である。人間こそが動物にとっての脅威だという学者の主張はともかくとして、人間が怖いというのは、これまでのヒッチコック的恐怖の理論からよく説明できる。

逮捕された殺人鬼の人物像として、知り合いや近隣の人の証言が報道されることがある。よくあるのが「おとなしい人だった」とか「普通の人」だったというインタヴューである。「まさかそんなことをする人だったとは」。つまり殺人者は必ずしも悪の権化のような風貌をしていない。

これは「もの」ではなく「背後にある何か」が恐怖の根源にあるという理論をもっとも体現している。そしてその典型が人間なのである。あなたの隣で寝ている猫がトラになることはまずないだろうが、善人が悪人に豹変することは決して希ではい。

ヒッチコック作品でいえば、典型的なのは、やはり『サイコ』(1960年)の主人公、ノーマン・ベイツだろう。

日常と非日常の境もない。われわれはそこで平気に生活していられるのは、「背後にある何か」よりも、やはり目に見える「もの」への依存が圧倒的だからだろう。われわれは潜在性よりも顕在性にとらわれて生きている。しかし一度「背後に何かある」ことに気づくと、ぞっとする。その恐怖は底知れない。それがヒッチコック的恐怖なのだった。

シニカルな眼差し

また鳥類学者はこうもいう。「鳥は人類よりずっと前から生息していたし、おびただしい数と種類の鳥と共存してきた」。鳥との戦争に人間が勝てるわけがないというのである。彼女の判断の根拠はどこにあるのか。専門家としての知識に由来するのはいうまでもない。

ただし知識は原理的に過去向きである。「ありえない」というのは、このベクトルを未来に振り向けた推測なのである。学者たちはこの推定に確信をもっているかのようである。あるいは確信をもつように振る舞うのが専門家か。

しかし原理的な問題として、過去向けのベクトルは完全に未来向けのベクトルと一致しているのか? 別のいい方をすれば、過去からは判断できないまったく新しいものが未来に生起する可能性は皆無なのか? 

こんな現実もある。これを書いている2022年は、3年前の新型コロナのパンデミックをまだ引きずっている。大流行が世界を呑み込んだ時、感染に何が有効かという議論が戦わされた。その時、マスクが有効だというエヴィダンスはないと専門家たちはいっていた。しかし、時の経過とともに、経験が証明したようだった。だんだん人々はわかってきたようだ。科学者は予言者ではないということ、彼らが絶対視している知識にも、あるいは知識の収集法や構築法にも問題の余地があることを。

『鳥』にも似たような眼差しが感じられる。自信ありげに「これまではなかった」=「これからもない」を信じ込んでいる識者はどうなのか。映画では学者の断定的な見解にもかかわらず、鳥と戦争状態に陥るのである。映画のあちこちにちりばめられたシニカルなエピソードの中で、ここにヒッチコックのもっとも深い皮肉がある。

知識は絶対ではないこと、予知できぬものの余地を未来にわずかでも残す謙虚さをもつのが、本当の学者なのだろう。

人間は独りでは生きていけない

主人公のメラニー(ティッピ・ヘドレン)は突飛で、衝動的で、エキセントリックともいえる行動で、ゴシップ誌をにぎわしていた。ミッチ(ロッド・テイラー)が妹の誕生日に鳥を贈ろうと、ペット・ショップに立ち寄った時も、偶然居合わせた彼女のいたずら心は抑えきれなかった。二人の間に生じたちょっとした不協和音は、メラニーにとっては、心地よく、気になるものだったようだ。

彼女はインコ(「ラヴ・バード」というのがミソ)を買って、人里離れたミッチの住居へ届けようとする。こうして近道である湾をボートで渡ることになる。軽はずみとも危険ともいえるこの行動も、彼女のエキセントリックさから説明がつく。

これが物語の発端となる。ボートで彼女はカモメに襲われるのである。彼女は傷ついたが、これでミッチとの再会は気まずさから救われることになった。素直になれない二人が、異変への対処のために、心を開くことになったのである。

次の日の誕生日パーティでメラニーの心の闇が明らかとなる。ミッチとの会話の中で彼女の秘密が明らかにされるのである。

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彼女は母親に捨てられたのだった。11歳といえば、今日、誕生日を迎えたキャシー(ヴェロニカ・カートライト)と同い年である。無条件に降り注がれるはずだった母親の愛は東部の男に横どりされてしまった。彼女が負った心の傷の深さが性格の不安定さと無関係のはずがない。

一方、ミッチの母親リディア(ジェシカ・タンディ)も不安定である。彼女はかつてミッチを愛した女性を遠ざけたという経緯があった。現在、元カノはこの地に移り住み、ミッチと遠からず近からずで生活している。何とも微妙な関係である。降って沸いたようなメラニーの存在も、リディアには当然「敵」と映った。彼女は何よりもミッチを失うことを恐れていた。メラニーとの会話の中で図らずも明らかにされる。

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禍、転じて福に

そんな個人的状況や、人間関係の入り組んだ関係性に、突然、鳥が侵入する。

カモメの襲撃がメラニーに傷を負わせ、ミッチとの関係がスムーズに始まったのだったが、それを契機に、彼女はこの地にとどまることになった。二人の関係が続くことになる。鳥のせいである。

メラニーはキャシーにとっての母親のような関係となり、鳥から守る保護者のようでもあった。そして鳥によって惨殺された友人を目の当たりにして寝込んだリディアは、メラニーに本音を話すようになっていた。彼女は深い安堵を覚えたようだった。

まるでミッチの家族というジグソー・パズルに欠けていた一片がきっちりと収まったようだった。欠落していたピースの名前はメラニーである。

そして鳥の波状攻撃を受ける中で、屋根裏部屋でメラニーが襲われる。救い出されたメラニーを抱えて、必死の脱出が試みられる。その時、自動車の後部座席でメラニーを抱くリディアの姿があった。

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そこでメラニーはリディアに母親を、リディアはメラニーに娘を見たかのようだった。メラニーにとっては、かつて裏切られ、捨てられ、それ以来、みずから存在の一部を失ったように感じていた母親の面影である。リディアにとっては怯え続けていた孤独から救い出してくれるような存在である。

要するに、これまで切り離されていた個人が連帯を見い出す。彼らは自分たちが切り離されていることさえ自覚していなかった。ただその影に怯えていたのである。しかし、よりによって鳥がもたらした禍が、存在の淵に在る、われわえの立ち位置を気づかせたのである。

ミッチとメラニー、リディア、キャシーはゆっくりと家を出て、車でそろそろと走り出す。彼らの行方には明るい日が射している。連帯をとり戻した未来の象徴であることはいうまでもない。

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わたしへの帰還

一般的に、災害や事故が惹き起こす混乱、また地球外生物などの侵略の暴虐を描くのがパニック映画である。しかし、少なくとも『鳥』では、鳥の恐るべき脅威と危機的状況がどんなに衝撃を与えようと、ヒッチコックは背後に人間の重要なテーマを潜ませた。

それがヒッチコックの戦略だった。『鳥』におけるポリフォニックともいえる作法がどう推敲されたかを検証するにはさまざまな精査が必要である。しかし『鳥』のポリフォニーが意識的にとらえられていることは間違いない。鳥の襲撃と人間模様へのきめ細かで構築的な対応(それらは書き切れない)、そして何よりも、関係性のパズルの1ピースのようなメラニーの緊密な設定は意図されなければ生まれない。

災害・危機によって、われわれは忘れかけていた結束を強くするのである。これが『鳥』の隠れたテーマだったといえるだろう。

このテーマがパニック映画に与えた影響はどれほど甚大だったことか。例には枚挙にいとまが無いが、ほんの一例をあげておこう。

たとえばスピルバーグも『鳥』のポリフォニーを読みとった一人であることはまちがいない。2005年に製作された『宇宙戦争』がそのことを雄弁に物語っている。異星人の侵略の仮借なき暴虐の傍らで、家族関係の修復が描かれているからである。H.G.ウェルズのSF小説(1898年)に基づく『宇宙戦争』には多くの版がある。それらを比較することでスピルバーグ版と『鳥』との影響関係が明らかになるのでは、と個人的に睨んでいる。

そもそもパニック性への志向が強い?スピルバーグだからこそ、破壊を描くだけでは映画が「浅く」なるという嗅覚があったのではないか。そこでヒッチコックの古典がものをいう。その鉱脈は脈々と流れている。少し前に観た『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年)にも確かに受け継がれていた。

人間関係のネットワークがわれわれの生活を形成している。関係性のほころびがわれわれの不安の源でもある。しかしそうした状況は日常からは見えないがゆえに、われわれを成り立たせているものに気づかない。しかし禍がもたらす危機的状況が本質をあぶり出す。

それを克服することで、より高次の関係性の秩序へ到達する可能性が開かれる。まさに禍転じて福となるである。ここでいう連帯とか結束とかいうのは人間の「間」の領域の問題である。しかしそれは「わたし」「わたしのアイデンティティ」、もっといえば「安定したわたし」「わたし自身」へと帰還するのである。

それにしても、甘ったるい感傷とは無縁のヒッチコックは、人間をもっとも深くとらえるヒューマニストなのだった。