シューベルト-シューマン-マーラーの系譜―『詩人の恋』番外編

シューマン『詩人の恋』第9曲「あれはフルートとヴァイオリン」の譜面はかっこいい。

歌詞はどこからともなく響いてくる婚礼の楽の音に、天使たちのすすり泣きが混ざり合う、というもの。何よりもテクスチュアが面白い。ピアノ譜の2段と歌唱声部からなる3声の楽譜で、真ん中のピアノの右手には絶え間ない十六分音符のリズムが流れる。このいわゆる無窮動のパートをはさんで、下にはピアノの左手、上に歌と、システィマテックに声部が配置される。そして下、バスは常に同じリズムをオスティナート風に刻む。上は独立した旋律を歌う(譜例上)。

次のヴンダーリッヒ/ギーゼンの演奏では、ピアノ右手の鮮やかなノン・レガートぎみタッチが面白い(楽譜はスラーがかかっているが)。

シューマンは歌曲を作曲する時、まず歌唱声部を書く、それからピアノ・パートを加え、最後に細部の追加や全体の調整、という手順を踏んだそうだ。しかしこの曲など全体の構図がほとんど頭の中にあっただろう。それほど美しく編み出されたテクスチュアに見える。

そして、同じように、これを「かっこいい」と見た作曲家がいたように思える。グスタフ・マーラーである。交響曲第2番『復活』の第3楽章、上の譜例で視覚的に、下の演奏で音として確認できる。

譜面づらがそっくりではないか。シューマンのピアノの右手は第1・第2ヴァイオリンに、左手はバスに、そして歌のパートは管楽器に振り分けられているように見える。まるで「あれはフルートとヴァイオリン」をオーケストレーションしたかのようだ。オーケストラであるがゆえに、楽器の組み合わせはいっそう多様・多彩で、上の譜例の部分は典型的な箇所といえる。しかし基本的な構図がシューマンにあることは間違いなかろう。明らかにポリフォニーへの感覚が二人を結びつけているのだろう。そしてシューマンのテクスチュアが、不気味で、グロテスクともいえる、きわめてマーラー的なスケルツォの創出に寄与していたようだ。

音楽を形、図にした楽譜では、両者の関係が「見える」のである。

ではあの独創的ともいえるテクスチュアは、シューマンによって、無から創造されたのだろうか。わたしにはそうは思えない。どこかにヒントがあったのではないか。たとえばこれである。シューベルトの名歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」。

「あれはフルートとヴァイオリン」と比べるとよくわかるはず。シューマンは無意識的にか、あるいは意識的にか、シューベルトのこの作品を思い浮かべていたのではないか。テクスチュアのデザインはそのままで、特にピアノの左手がオスティナートにリズムを刻むのが「そのままと」いっていい。

音楽に何か新しいものが生じるのは、音楽外のものが作用する時かもしれない。シューベルトがこの創造的なテクスチュアを生んだのは、明らかに、歌詞内容の描写のためだったからである。左手のオスティナートのリズムは糸車を回す足のペダルを表す。右手の十六分音符が回転する糸車を描くのはいうまでもない。つまり情景描写という音楽外の要素が音楽そのものに影響を与えたのである。

シューマンの歌曲ではシューベルトの描写性は薄まっている。フルートやヴァイオリン、それにトランペットの宴会を特に音楽で描こうとはしていない。歌詞の意味内容から少し離れたところで、美しいテクスチュアを織りなしていたのである。そしてマーラーでは歌詞そのものがなくなった。抽象化はさらに進み、音楽そのものへと昇華された。

シューベルトからシューマン、マーラーの系譜がここにあるとしたら、それは真似の連鎖なのではない。再創造という連続する飛躍なのである。おそらくはそれが歴史の根底にあるものなのだろう。